TAMURATIC

2009年12月 8日 (火)

新ウェブサイト仮オープン

先ほど、ようやくある程度体裁が整いました。

まだいくつかの記事は出来上がっていないのですが、、
幾人かの方には有り難いことに

「楽しみにしてますhappy02

と言っていただいておりますので、、weep

一応、本日仮のオープンとさせていただきました。

『TAMURATIC錬達舎』

まだサーバー(ウェブサイトを置かしていただくところ)様の
都合で、独自のドメイン(WEBでの住所)が使えません。
ブックマークなどは、正式オープンまではしていただかない
方が良いかもしれません。

今回は、あえて努めてシンプルにしました。

これからも、写真や文章は少しづつ変化していくことでしょう。

でも、ボクの根っこのコンセプトは、10年前から変わっていません。

そしてこれからも、オモテに表現される形式は変われど、根っこは
変わらないように思います。

では、正式オープンの際には、またこのブログにてご挨拶させて
いただきます。

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2009年10月28日 (水)

顔のマヒ

ボクがかりそめにも「均整師」として一本立ちして、気づけば
もう14年目に入っていましたcoldsweats01

初期の頃、ほかに仕事を持ちつつ、あちこちに出張していた当時
を、最近ふと思い出すことしばしば。

もうすぐ40歳、いわゆる不惑を迎えるからなのか、、
また、何かしらの、新たな展開の前触れからなのか、、


その最初期、
つまり、「均整師」として本当に駆け出し始めたまさに初めての
クライアント(この呼び方は不本意ながら、便宜上)さんとの
お付き合いは、いまだにあります。

その方は、時折思い出したように「空いてれば…」と来訪される
こともあれば、具合の悪い時だけは頻繁にcatfaceおいでになる方。


この夏、その方が患ったのは顔のマヒ。

通常、医学的にはこの症状は早くて1か月、人により1年程度
はかかる、、、と、病院では説明されるそうです。

医学的にこういうと言うことは、、要は自然にまかせるしかない
ということ。

そうであれば、また別角度からのアプローチをする意義も意味も…
ありますよねsmile


けっこうなマヒでした。
けれど、1か月後には、傍目にはかなりの改善度合。
まあ、ご本人、女性ですしまだまだ不満気でしたけれど。


均整的には、「マヒ」というのは虚、つまり身体的に弱化
している状態、、と捉えます。

それは、部分、つまりこの場合は「顔」、もっといえば
脳神経系(三叉神経など)の虚、ともいえますし、さらには
身体全体の虚、ともいえます。

そうすると、どこがどう弱っていて、どういうつながりで
「顔のマヒ」という状態とつながっているのか、、
そういうことを「読む」能力が必要になります。

症状というのは、多くの場合は結果に過ぎないので、それを
引き起こす、身体的な要因を読み解くことができれば、
より深い見地からのアプローチが可能になるからですね。


この方の場合も、「顔のマヒ」から、次々といろいろな症状が
出てきていましたが、これも、身体を全体として捉え、結びつき
を読みとってさえいれば、ほとんどは想定の範囲内。

あわてることもなく、アプローチできます。



その方は今日来訪され、引っ越し祝いといって、ビワの鉢植えを
持参してこられましたpresent

「引っ越し随分前なんだけど…confident」と言いながら、ありがたく
頂きました。

イヤイヤ……

ありがたいことですhappy01









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2009年9月25日 (金)

お化粧マインド

ボクはよく思います。
人は、つくづく「お化粧」が好きなんだな、と……。

「お化粧」といっても、いわゆるファンデーションなど
を女性が顔に塗るというソレではありません。


たとえば、体裁を繕うため
たとえば、自分にとって不利なその場をしのぐため
たとえば、自分の立場を有利にしたいため
たとえば、病気を重く見せたいため
たとえば、苦労していることを認めてもらいたいため
たとえば、仕事で楽をしたいため

……などなど。

このように、状況をできるだけ自分の思うような方向に
向かせたい場合、人は往々にして無意識に、あるいは
時や人によりて確信的に

自分に、もっといえばその心に「お化粧」を、します。


これはいい悪い、善悪、そういう概念抜きにして、人は
誰しも、こういう「お化粧」をするメカニズムを有して
います。


カッコよく見られたい
誠実に見られたい
男らしくみられたい
女らしく見られたい
優しく見られたい
ただ、愛されたい

こういう欲求は、誰しもあるもの。
このような欲求あるがゆえに、人は努力もし、頭も
使い、オシャレもします。
このような欲求あるがゆえに、ある意味で「文化」は
常に進歩というベクトルを持ち続けるのでしょう。


ただ、

この「お化粧」も、あまりに幾つも重なり過ぎると、また
あまりに「理想」という名のイマジネーションで厚く塗り
過ぎると、思わぬところで見られたくない部分をさらす
ことになります。



自分の影なる部分は、自分はおろか他人になど絶対に
見られたくはないもの、でしょう。

それがゆえに、いつも必死で「お化粧」をして、その
影なる部分に色をつける。

でも、この色は、ちょっとした隙に落ちてしまいます。
必死で隠そうとするその心は、実は脆く壊れやすいもの。
そんなにいつまでも、隠しておいてはくれません。

「〜でいたい」という欲求のもと、必死でがんばっていた
のに、ポロっとその影を表に出してしまった。

そうすると、その隠そうとする心は、慌てます。
ほとんどの場合、慌てて狼狽してしまいます。

そうすると、心全体は揺り動き、もともと内在していた
不安や恐れは、暴れ始めます。

どうにか、「○○である自分」を保とうと……。



誰にでも「欲」はありますよね?

ボクにしても、「いいセラピスト」「上手」「できる」
などの評価を受けたいという欲求は、ないワケでは
ありません。

こういう「欲」を満たし、他人から認められ、自分で
自分を納得させたい、褒めてあげたいがために、人は
自分の生きる分野で向上を目指し、努力するのでしょう。

そうしていくなかで、自然と「お化粧」は薄くなったり、
しなくなったりしてくる…事もあるでしょう。

でも、努力の方向が最適でなかったり、ただ苦しいだけで
実りもない期間が長く続いたりすると…人はやがて疲れ、
身も心も荒んでいきます。



もしいま、
あなたにそういう自覚があるのでしたら、



独りよがりの生き方を
怒りに流される生き方を
人を傷つけ自分も傷つくような生き方を

素直に率直に
見直す時期……なのかもしれません。









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2009年9月14日 (月)

身体と心の関係 2

肘が伸びない。

このような悩みをもたれている方は、もしかしたら
けっこういるのかもしれません。

「肘が伸びない」=関節の問題。

普通、このように考えますし、確かに目で見える
現象としてはそうなります。

そして、肘そのものに何かしらのアプローチを
施すことで、それなりに伸びるようになる……
場合も、たくさんあります。

でも、それで伸びてこない場合も、実はたくさん
あるでしょう。。


たとえばボクは、幼少時からつい最近まで、肘を
まっすぐに伸ばすことはできませんでした。

日常に多大な影響がある訳ではないので、ことさら
大きなデメリットとしてとらえてはいませんでしたし、
幼い頃からですので、そのことに不快感を感じること
も、表面的な意識ではあまりありませんでした。

ただ、だからといって、デメリットがなかった訳では
ありません。

そして、肘と関連しているのですが、小学生くらいの
頃は、机でノートに何かを書く時は、常にノートが左に
捻れていました。

最初まっすぐにしていても、気づけばそうなってしまう。

たまにそういう子供を見かけることもあるでしょうけれど、
そういう場合、身体の捻れている側の上半身は緊張して
萎縮しています。

どこが萎縮しているのかといえば、筋肉、というよりは、
もっと奥深く。

その奥深くの影響で、身体はねじれ、肘は伸びないという
現象を導いている、、、、といえます。

左半身の萎縮、それも外的な筋肉ではなく、より奥深くの
萎縮は、臓器でいえば胃腸や心臓の働きに影響します。

胃腸がいつも緊張しているような身体であれば、精気に欠け
元気がなく、心配症な雰囲気を醸すでしょう。

そして心臓の影響は、いつもドキドキとした、どこか不安な、
そしてどこか恐怖感をまとわせるものです。

小学生時代のボクは、相当に萎縮傾向の強い子でした。

何かよくわからないけれど、すごく引っ込み思案で、いつも
人の後ろにいるような感じ、、の子ですね。

これらも、それまでの抑圧や幼少時のトラウマやらが影響
しているのでしょうけれど、、まあ、とりあえずそれは
どうでもいいことです。


ここでご理解いただきたいことは、

「身体の状態が心に反映される」

ということ、です。

そして、その身体が変化する、ということは、心の様相
そのものもまた変化する、、ということです。


いま現在のボクの肘は、ほぼ人並み程度に伸びるようには
なっています。

そうなって初めて、伸びなかった頃の自分の身体の様相を
理解するに至りました。

そして、身体の状態がどれだけ心の様相に影響するか、も
深い実感とともに理解することが、できています。





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2009年9月10日 (木)

身体と心の関係

心が身体に与える影響、、という面は、ここ最近で相当
クローズアップされてきた面もあります。

ただ、その表裏概念である、身体から心に与える影響、と
いうものも、確かに存在します。

たとえば、目を使い過ぎれば神経系は疲労する。
ここまでは普通に考えればわかりますね。

では、その目の疲労の影響によって、たとえばイライラしたり、
気分が、一時的にせよ深く沈んだり、、ということもあります。
あまりそれが「目の疲労」の影響と考えることもないとは
思いますが、、実際にそういうこともあります。

身体の状態で、あらぬ不安に襲われることもあれば、
変に意地を張ったり見栄を張ったり、イジワルになったり
することもあるのです。

これは、子供であっても、大人であっても同じです。

身体というのは、そういう意味では表現の場。
「いま」のその人を、端的に映し出します。

たとえば、左肩が上がっている。
それは、胃が緊張しているからなのか、肝臓の緊張の
影響で右側が縮み左が上がって見えるのか、心臓の影響
なのか、またまた首のゆがみなのか、腰のゆがみの影響
なのか……
胃が緊張しているとしたら、それは食べ物の影響なのか
上司からのプレッシャーの反映なのか、家庭事情による
心配からなのか……
子供であれば、学校で何かあったのか、何か隠し事をして
いてそれが胃の緊張として現れたのか……などなど、、。


自己を取り巻くあらゆる環境のなかで、相互に連動し、その
時々の有り様を映し出す心身のメカニズム。

驚きも悲しみも、怒りも憎しみも、そして愛も、、、。
すべては身体を通して実感されるものです。














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2009年9月 5日 (土)

ホントの言葉

咲き誇る庭園の花々も、必要だからとせっせと肥料を
与え過ぎると、やがてその美しさは去り、そのことに
よって病み衰えていきます。

その美しさを、美しいままに維持していこうとする
のなら、天候、土の状態、そして何よりその花々の、
いや、そのそれぞれの「花」の個性をつかむこと。

「いま水が欲しい」とその花からの伝言を感知し、
どのくらいの量が適切なのかと、逐一様子を観ながら
適切な分量を与える。

そうやって、美しい庭園は美しいまま維持されていく
のでしょう。

ものいわぬ花々。
しかし、ものいわないからこそ、維持する側の人々は
感覚を研ぎ澄まし、花のコトバを理解しようと努める。

その背景には、その花々を愛おしむ気持ち。
その気持ちと花々が深くつながる時に、「いま」と
いう、閃きにも似た感覚が芽生えてくるのかも。



しかし、いくら「いま」をつかめたからといって、
与える肥料が適切でなかったり、水が腐っていたと
すれば、花々はたちまちのうちに病み衰えます。

ただ与えるのでなく、その与えるものの

「質」「量」「中身」・・・etc

などの適切なことが、必要になります。

たとえ高級な肥料や高度に浄化された水を与えて
いても、その花の個性にそぐわないものであった
とすれば、、、行き着く結果はやはり病み衰える
ことになるのでしょう。

これは、人も同じ。

いま、その人に何が必要なのか?


「人は言葉があるのだから、聞けばいい」

と思われるでしょうけれど、本当に訴えたい何かを
言葉にできる人ならば、確かにそうです。

でも、そうでないから行動がチグハグになったり、
自己チューになって、頑なに自分を崩さなかったり、
どこかに痛みを出したりしてサインを出すのです。

それらサインの本質は何か?
それも「こうだ」と決めつけず、じっくりとその人を
観ていくことで、深い処から理解できるのでしょう。


人にはものいわぬ森羅万象のコトバを理解する能力が
備わっているのです。

そういう感覚を少し研ぎ澄ます意味でも、目の前の
その人の「ホントの言葉」と、つながってみましょう。

「ホントの言葉」がつかめたその時、意思の疎通も
スッと、川が流れゆくようにサラサラと伝わるように
なるものです。。

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2009年9月 3日 (木)

背骨の表情

「背骨」は、解剖学的、つまり学術的な見地から見れば、
ひとつひとつの「骨」であり、「物体」であり、人の身体
の土台となる「柱」である、といえるでしょう。

ただ、均整のように、その「背骨」を基盤に身体を捉える
メソッドからすれば、その観点だけでは少し足らない…
といえるかと思います。



生きた人間というのは、活動時はもちろん、たとえ眠って
いても呼吸をし、脈は打ち、細胞は常に入れ替わっています。

では、「背骨」に限らず骨全般、そのような活動はして
いないのか……といえばそんなことはなく、ごく当たり前に
呼吸の恩恵を受けているし、栄養を吸収もしますし、細胞は
いつも入れ替わっているのです。

「骨」イコール「硬い」イコール「変化しない」
と、なんとなく考えがちになるかもしれませんが、そんな事
はなく、他の身体器官同様、常に変化変容を遂げています。

その変化変容は一様ではなく、多様極まりありません。



「背骨」の役割というのは、何も身体の「柱」になることだけ
ではありません。

最近では、脳が全身のコントロールセンターであることはもはや
常識のようにいわれるようになりました。

では、その脳は、どのようにして全身に指令を発したり、あるいは
内臓などからの信号を受けたりするのか…というと、「背骨」を
中継して神経ネットワークを形成していることで、そういう役割を
担えているのです。

そういう意味で、身体の大黒柱は、「背骨」といえるでしょう。

そして、その「背骨」は、実にいろいろな表情があります。

イライラしている時は、そういう表情を
嬉しい時は、そういう表情を
悲しい時は、そういう表情を

如実に、表現します。

それも当然のことなのですが、たとえば東洋医学では肝臓や
心臓などの「五臓」が人の「感情」と密接に関連している
ことを明らかにしています。

たとえば、人はイライラしている時は、肝臓が硬くなります。
そうすると、その肝臓に関連した神経はそういう信号を受け
ることになります。
そういう信号を受ける神経と関連した「背骨」は、微妙では
ありますが、その影響でわずかにポジションが狂ったり、
周辺の筋肉を硬くしたりします。

つまり、内臓や脳とダイレクトにつながっている「背骨」は、
常にその影響で変化変容を遂げている、、ということです。

そういう常に変化変容する表情を、指先で触れて読んでいく。

ずっとこういう事をやっていると、とても骨を「物体」と
捉えるような観点は持てません。。


生きている身体。
やはり神秘に満ちています。。。。。




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2009年8月27日 (木)

病人と看病人

「病人と看病人」

これは、整体(通称・野口整体)創始者、故・野口晴哉先生の
潜在意識教育法に関する本のタイトル。

タイトルだけ見ると「どういたわればいいか」や具体的ケア
の手法など書いてあるとイメージされるかもしれませんね。

確かに、そういう部分もあります。
ですが、それを期待してこの本を読むと、、意表をつかれる
ことになるでしょうsad

「病人と看病人の問題ということは、とりもなおさず人間の
 潜在意識のコミュニケーション、心の伝わりあいの問題で
 ある」

という文から始まるこの本は、さまざまな「病人」の心理を
解き明かしています。

たとえば

「病気になると、早く病気を治して丈夫になろうとするけれ
 ども、どんな方法を講じても病人になっている人に効はない。
 『まだここが悪い』『まだここが妙だ』と、自分で自分の
 悪いところだけ数え、見せびらかして、そうして自分でも
 脅えている。
 本当に脅えないと真に迫らないのだから、その病気が恐ろしい
 と信ずることから始まる。
 病気を恐ろしいと思わない人は病人にはなれない。
 だから癌になったら死ぬものと自分で決めて、本当に驚き
 慌てていると、周りでかばってくれる。
 それが真に迫らないと、なかなか周囲を動かせないが、幸い癌
 だという証明書があれば病人を続けていられる。」

「糖尿病や結核の人も、体温やら尿の中の糖分やらを書き付けた
 グラフをお守りにしているが、そういうものを持っていないと
 信じられないくらい、元気になっているのに、そのお守りを
 見せて『この通りだ』というと、病人待遇をしてもらえる。
 そうすると、今度はその待遇が欲しくなって、治りそうに
 なると不摂生をする。
 すると医者を嘆く。『もう一息というところで不摂生をした』
 と。
 そうではなくて、もう一息で病人でなくなってしまう。
 それでは彼は困るのである。
 それを未練症状という。」

という、病人にとっては辛辣な、しかしその内側でおぼろげながら
自覚できるであろう論が縦横無尽に展開されています。

その論は「看病人」の側にもおよびます。

「この間も、Mさんの息子のKちゃんがハシカになった。
 ハシカは簡単な病気でたいしたこともなく通るのだが、 
 それで経過を聞いてみると、ともかく病人は大事にしさえすれば
 安全という考え方で看病してしまっている。

 ハシカというのは、寒い時になると発疹したものが引っ込んで
 しまうので、風に当てないように警戒する。
 ところが、昔から“ハシカは5月”といって5月が一番流行るが
 一番軽く済む。
 ちょうど暑からず寒からずで冷えない時期だから、経過が極めて 
 いい。
 そこで、5月のハシカは何もしないで通る。
 ところがMさんは、ハシカになったら蚊帳をつるということを
 講習に出てしっているので、今月のハシカなら蚊帳はいらないと
 言ったのに、それでも念のためにといって蚊帳に入れてしまった。
 ところが子供は「キリギリスみたいに、ボクをこんな中に入れた」と
 いって怒ったという。

 (中略)

 発疹してから蚊帳のなかに入れればいいのに、だいぶ前から入れて
 しまっている。
 だから、『親も一緒に入っていなさい』と言ったのだが、親は
 とても我慢ができない。
 それで、早くから入れてはいけないということがわかったと 
 言っていたが、そういう過保護の状態は何から起きるかというと、
 病人を看病しようとする場合に、良いことはやっておこう、悪く
 なるといけないから先回りしてやっておこうという心があって、 
 何か自分の心の不安を安心させるために、蚊帳をつったりして
 病人の不快なことを平気でやるのである。
 これは病人を看病していることだろうか。
 自分の心の看病をしているだけである。
 そのうえ、病人にその負担をかけていることに気がつかない。」

「話のわかる親父でありたい、叱言をいわないヒステリックでない
 お母さんでありたい、子供にそう見せようとして、ただやたらに
 褒め上げて叱らず、言うべきところを黙っている親が多くなって
 いるが、それも自分を売り込む看病人と同じである。

 だから、病気を看る看病人は最も良く、病人を看る看病人は次に
 良く、病人に看られようとする看病人は全く価値がない。」


と、引用長くなってしまいましたがcoldsweats01、複雑微妙な「病人と
看病人」の関係を掘り起こしています。

また、これは単に「病人と看病人」のみならず、たとえば親と子、
たとえば恋人関係、たとえばセラピストとクライアントの関係…
にもこの心の伝わりあいと、形成される心理というのは活かす
ことができるのではないでしょうか。

たとえば、子供が何かにつまづいて転んだとします。
それを、自分で立ち上がれるのに起こしてしまう。
それが続けば、起こしてもらわないことに、逆にその子は不平不満
を感じ、起こしてもらわないことを責めるようにもなってくる
でしょう。

よかれと思ってしていることが、かえって意図したことと反対の
心理を育んだり、負担を与えていたりすることもあるのですね。。

その子に自ら立ち上がってくる力を育ててもらいたいと、もし
願うのであれば、ここは静かに、そしてその中にも確かな愛を
持ちつつ「待つ」こと自体に、意味があるのかもしれません。


ボクも以前は、「改善されない」という方を前にして、トコトン
やってしまうこともしばしばありました。
それが「余計なお世話」だと知りつつも、目の前で改善されて
いない現実を前にして、焦りや不安に飲み込まれてしまうのですね。

また、「他人を救えている感覚」という、勘違いも甚だしい感覚に
悦に入っていた時期もありました。
これにより自分も気持ちよくなり、「人助け」でなく「自分助け」
をしていたような・・shock


そういう時期をへて「今」へとつながり、冷静にその頃を反省
することもできるようになりました。

結局は、自らの現実に目をつぶることなく、自らを育てていく
こと…なのでしょう、、ね。。



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2009年8月22日 (土)

背骨が伝えるもの

均整的なアプローチは運動系、つまり筋肉や関節の
ポジションや動き、弾力の良し悪しなどを身体調整
の基準とします。

ある部分に痛みやこわばりが生まれているとしても、
それをその部分のみのアクシデントという捉え方は
しません。

常に全体のなかでその痛みやこわばりを捉え、どの
ような意味合いをもってそれらが生まれたものか…
このような視点から身体を眺めていくことで、単に
痛みやこわばりを解決するだけでない、より深いレベル
へのアプローチが可能となります。


このような視点から観た場合、「背骨」は実に多くの
情報を伝えています。


ボクの処では、ほぼどなたでもうつ伏せになっていただき、
「背骨」を指先で触れます。

その際に指先から感知される情報は、多様です。


たとえば、ある方が腰痛で来訪されたとします。
そうすると、当然ふつうは「腰」の部分をどうにかしよう
と考えるでしょう。

単純に「痛み」を改善する。
そういう意味合いだけであれば、多くはそれで良い方向へ
向かうことでしょう。

でも、まれにそれでは改善しないこともあります。

「腰」というのは、骨格的な構造という面から考えてみた
場合、「背骨」全体の中でも最も太く強い骨群です。
そして、あらゆる動き、行動の中心に、「腰」はあります。

強いから、本来なら制限されることなどないはず、、ですよね?
でも、現代日本において「腰痛」を感じたことのある人は
決して少なくはありません。

それは、人間は立った姿勢だから「腰」に負担がきやすいと
いう説明以上の、「何か」がその背景に確実にあるからでしょう。


意外かもしれませんが、たとえば「眼」を癒しただけで、
長い期間感じていた腰痛が緩和したりする場合もあります。
また、浅い呼吸が深くなっただけでも、緩和する場合も
あります。

懸命に「腰」を調整したり、骨盤を整えたりするよりも、
こういった「腰」以外の部分が快適さを取り戻すことで、
「腰」にかかっていた負担が軽減される、、のですね。

せっかく身体が痛みやこわばりというカタチで情報を
オモテに伝えているのですから、それをその伝えたい
カタチのままなるべく受け取ることって、やっぱり
こういう調整のいわば“キモ”でしょうhappy02

その情報は、身体のなにげない動作だったり、姿勢、
口から発する言葉であったりいろいろですが、やはり
もっともアテになる情報源は「背骨」なんですね。
(まあ、ボクにとっては・・・coldsweats01)

「背骨」に触れることで、精緻微妙に変化する身体、
そして身体と相関する心のありさまを読解していく。

こう考えると、均整的なアプローチというのは、

“ボディ(マインド)リーディング即コンディショニング”

という言い方も、、できますね、、、wink







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2009年8月18日 (火)

小児の調整の実際

今日は、朝から小学生のお子さんの調整を
4名ほど。


お子さんの調整を…というようなお話をすると

「ええ…子どもはふつう健康でこういうのいらない
 んじゃありませんか?」

というお応えをいただくこともあります。

けれど、それは正鵠を得た見方、とはいえない、、
というのが現実、とボクは実感から思います。

むしろ、心身が未成熟な時期であるからこそ、調整できる
ところは調整しておくことは必要でしょう。


たとえば一見すると利発そうで、実際の学校生活でもリーダー
的存在になるようなお子さんでも、身体を観ると背中が
こわばっていたり、お腹が固くなっていたりします。

それは単なる外見や、振る舞いからはなかなかふつうは観え
にくいものですけれど、身体はそうやってサインを送って
います。

それとは反対に、たとえば、学校でイジメにあっていたり、
友達ができないと親御さんが心配していても、実際のその
子の身体は、さほど歪みのない場合も、あります。

もちろん、それはそれでしんどい思いをしてもいるのでしょう
けれど、身体的にはその現状をキチンと受け取り、すでに
消化している……この場合は、そういう見方もできます。

そこに至るプロセスは確かにあり、そのプロセスにおいては
大変な時期もあるでしょう。
けれど、そうやって自ら消化し、乗り越えていく力というのは
基本的に誰の内にもあるものです。


その内なる力を引き出す……身体を調整し、そのお子さん自身の
気の流れをサポートする。

停滞している(気の)パイプのつまりを解放すれば、誰しも気持ち
いいはずです。
そしてそれは、大人も子どもも、関係ありません。

それによって、まだ表現する術すら知らない子どもの、素直な
感情が現れてくるかもしれません。


今日、ここまで4名のお子さんを調整して、みな調整後には
気がスッと通り、あるお子さんはそのまま爆睡smileしてしまい
ましたnotes

お子さんはお子さんで、生きていくのは大変なんですよね…。



今日の調整が、みなさまの身・心・魂の健全なる気の流れを促す、
そのサポートとなりましたら幸いです。









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