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2009年1月

2009年1月30日 (金)

ブログ始めて、はや3か月

1月も、もう明日でおしまい。

明日は「カラダとココロのリセット茶会」なもので、
今日が、1月最後の更新となるかなhappy01


だいぶ不遜smileな、傲慢catfaceな雰囲気で展開してきたこのブログ
も、もう3か月が経過しました。

ある方には「難しい」と叱られ、ある方には「勉強になった」と
言っていただいたりして、恐縮もすれば感謝もしてますlovely

まあ、ボクを直接知っていたり、知っていてもある角度から
ボクを見ていただいていないと、まず継続して読まないよう
なスタイルで、いまのところ書いてきていますので、、、

ホント、感謝して余りあります。。


さて、今日は何を書こうか、まったく考えないまま、いま
PCの前にいますが……。

さてさてleoでは、、


「癒し」

について、ちょっとだけ、書いてみよかなshine

いま、というかもうホントはずいぶん前から「癒し」は
流行ってますよね?
ボクが「均整」始めた1994年には、すでにそう言われて
いました。

ただ、本当に「整体」や「気」という言葉が違和感なく
受け入れられるようになったのは、ここ2…3年、かな。
とはいえ、それも一部、ですけど。

でも実は、いまの状況と似た時代と言うのは、むかしも
あったんです。

明治、大正期に。

いまはその当時とは比較にならないほど情報もあるし、
内容も多彩になっていますけど。

その当時も、「ブーム」だったんですね。
まあ、「ブーム」というのも、ホントはおかしな話なんだ
けどbleah

ただその当時と決定的にちがうのは、いまは女性がかなり
社会的な面でも表に出ていること。

だから、雑誌もオシャレでセンシティブなスタイルのもの
が多くあって、抵抗感なく入っていきやすくなっているし。

また、「科学的」な趨勢に勢いのあったその頃とちがい、
いまはそれを受け入れる土壌も、ある程度開拓されても
いるし、その頃のように圧殺されることも、ないだろうな。

まだしばらくはこの流れは続いていくし、これまでは
アメリカやヨーロッパのテクニック主流だったけれど、
今後はロシアやらアジア各国の、伝統的かつ本当に洗練
されたテクニックというのも、入ってくるでしょうね〜。


そういうなかで、変わっていくものもあれば、変わらない
ものも、ある。

いくら表面が変わったとしても、人にとって本当に大事な
ものは、どう時代が動こうとも、変わらない。


かつて民間療術(今風にすればオルタナティブセラピーかなcoldsweats01)
というのは、あんまり色々なテクニックなくても、そうとう
いろいろな変化・改善をもたらしていたんですね。

いまのように社会構造が複雑化していなかったとか、いまほど
病気が複雑でないとか、自然治癒力が高かったから、、という
向きもあるけれど、ボクは、あんまり関係ないと思っています。

もっと、大事なことがありますから、ね。。

あ、また傲慢不遜なボクが…coldsweats01
スミマセン。。



ではでは、今日はこんなところで。。
いつも、ありがとうございます。




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2009年1月29日 (木)

背骨で判別する

「均整」や「整体」でもっとも特徴的なのは、

「背骨で身心の異常を判別する」

という点だろう。


「そんなのは、どの整体でもやっているのでは?」

と思われるかもしれない。

確かにそう。
しかし、その「内容」は、本質的に趣が違う。


人はそれぞれ違う、と、このブログでもこれまで何度かは
書いてきた。
だからこそ、一過性の、マニュアル的な「調整」では、
本来的な「調整」は難しいと。

それは、「背骨」を読むことを実践すると、言葉でなく
理論でなく、「実感」としてわかるようになる。



頚椎(首)7個、胸椎(胴)12個、腰椎(腰)5個、そして仙椎
という骨盤部の骨に、尾てい骨…。

そのそれぞれに独特の表情があり、主張がある。
初歩の段階では、まず徹底的な【読む】トレーニングを
することで、このことを会得していく。



それは、物理的には硬さや大小、熱感のあるもの、冷んやり
としているもの、鋭く針のように尖っているもの、薄く
ベタッとしているもの、沈みこんでいるもの、鈍重な感覚の
もの、スッと涼しげな感触のもの……などなど。

人それぞれのみならず、同じ人物であっても日により、季節
により、体調により、気分により、年齢により、、変わる。

これらを「指」により判別できるようにしていく。


たとえば、「眠れない」という人。

その人の胸椎9番が熱感をもって他よりも出っ張っている
ように感じたら、それはベーシックな反応。
何らかのストレッサーにアドレナリンが過剰に分泌して、
その興奮が抜けなくなっているのだろう。

しかし、逆に胸椎9番が冷たく硬直していたら…。
少し、警戒が必要になってくる。

また、胸椎9番にそういう反応のみられないタイプの
「眠れない」も、当然ある。

その因果関係のメカニズムを触知していく作業が、
この時には必要に、なる。


「○○の時には◎◎」。
こういうオートメーション式思考に馴らされた現代では、
なかなか理解しがたい感覚かも、しれない。

確かに、メンド〜といえばメンド〜。
そんなことしなくたって、人はよくなる。
マニュアル的にやろうが、オートメーションだろうが、
少しでも改善すればいいんだといえば、いい。


ただ、ね。。。

僕は、「人の何たるか」みたいなことを、知りたい。
そして、その「真実」を、知りたい。

そういう思いが、ある。

まあ、だから「均整」や「整体」、ここまでやってきた…

のだろう。。














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2009年1月28日 (水)

痛みを物質化してみると……

あらゆる物質は、エネルギーである——

…これは、いわずとしれた(?)量子物理学的な視点。

ずいぶん前から物理学のみならず、心理学やセラピー
の世界でも、このような視点からのメソッドはひとつ
の潮流となっている。

というか、唯物論的な、人間の機械的な面だけを対象
としていては、実際のところ話にならないのだから、
当たり前といえば当たり前。

さて、この概念。
裏を返せば

「エネルギーは、物質化することもできる」

と、とらえることもできる。

こうとらえると、実際、便利だし(笑)。


たとえば、ある女性。

腰痛で来訪されたのだが、実はずっと以前から子宮に
固まりができるある病気を抱えておられる。

会社の検診などで、それが「大きくなっている」と
いわれると……やはり、不安になる。

それまで、特に何も症状などなくても、やがてその
不安は、やがて何かしらの形で表面化する。

この方の場合、今回は「腰の痛み」としてそれが
出てきた、とここでは考えてみる。


心、ここにあらず。
そういう印象を受けた僕は、

「身体の調整の前に、やることがあります」

と言って、イスに座っていただいた。

「痛みにも、実はいろいろな意味があります。
 もちろん、物理的な肉体がメインで痛むことも
 ありますけど、そうでないこともあったり、します」

というような流れで、その方の様子をみながらしばしレクチャー。

人により、知識や理解のしかたは違う。
ある人にとってリンゴは赤いフルーツだが、ある人にとっては
嫌悪感すら抱く、醜悪な食べ物だったりする。

ミトコンドリアと聞いて「細胞」と思う人もいれば、「どこの
別荘地」と聞き返してくる方もいる(いや、ホント)。

人はそれぞれ、生きている「場所」があり、それを侵害される
のを、普通は好ましく思わない。


「さて痛みは、実はその大半を『創作』している、としたら
 いかがですか?」

というような事をいうと、やはり「?」という顔をされた。
それは当然だろう。

でも、「痛み」、特にこういう場合のそれは、ほぼ『創作』。

それを納得していただくために便利なのが、

「痛みの物質化」

という手法。

まあ、原理自体は別に僕のオリジナルでもなんでもないので、
以下にこの時のおおまかな要点を記す。

1、まず「いま抱えている不安」をできるだけ詳しく割り出し、
  それをイメージを用いて「物質化」する。

2、次にそれを左右どちらかの手にもたせる。
  そして「重さ」「硬さ」「質感」などをありありと体感
  してもらう。

3、体感してもらったら、それを処理する。
  (たとえば燃やす、ハンマーで砕く など)

4、再び「物質化」してもらい、処理以前との感触の違いを
  確認してもらう。

というような流れで、必要に応じてその要素を「物質化」して
処理していく。

そうすると、この方の場合……

「……ずいぶん、軽くなりました」

と言われていた。

まあ、当然そうすると「痛み」として漠然と表現されていた
もろもろのメンタルな要素が顕在化するので、あとはそれを
整理していけば、よい。



たとえば、指などを切っても騒ぐことなく冷静にいると、
よほどでなければそんなに血がでなかったり、する。

一瞬のタイミングだから、まあ難しいことは難しいのだが、
「痛い」と思ったその反応によって出血は増すことは、
意外とよく(?)知られている。

つまりそれだけ、身体に与える心理的な影響は絶大、、、
ということ、だろう。


痛みも、物質化できる。
エネルギーは、物質化することもできる。

つまり、痛みもまた、ひとつのエネルギー。

……な〜んて捉え方、してみてもいい時代、、、
かも、ですね。。


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2009年1月27日 (火)

「本当にやりたいこと」はやりたいこと?

本当にやりたいことって、本当にやりたい?

……こういう、素朴なギモンを、もってみる。



僕の10代の時分、世の中全体、上がり調子だった。
言い方を変えれば、バブル景気で浮かれていたのだろうか。

当時九州の片田舎で、そういうご時世と関係なく、自分に
ずっといい知れぬ異和感を感じつつ、何するでもなく過ごし
ていた。

今からもう、20年以上前のことだ。


その当時すでに

「夢をつかめ」
「一攫千金」
「はばたけ若人」(←すでに古かったかな 笑)

などのキャッチーなフレーズは、そこかしこで目についていた。

いまのようにインターネットもないご時世、あんぽんたん
な高校生だった僕は、当時けっこうテレビっ子の読書好き。

知らず知らず、こういうフレーズが無意識にピシッとインプット。
そこに、「ボクはこんなんじゃない」的な、若者特有の傲慢さが
ガソリンとなって、僕という器を走らせていた。


「本当にやりたいことって、何だろう??」

こう、問いかけながら日々を過ごし、そう問うことが素晴らしい
ことであるかのように錯覚していた。


つい先日。

「本当にやりたいことがわからない」

という方に出会うことができた。
やはり、どこかそういう自分の影を観る。

どのような場合でも、相手の方は鏡だから。


「まず、『やりたいこと』を探すという視点より、

 『やるべきこと』

 を片付けていくことを優先した方がいいかも、ですね」

「その『やるべきこと』というのは、たとえば部屋の掃除
 だったり、読んでない本の整理だったり…そういうことも 
 含みます」

というようなことを、お伝えした。

当然、これは同時に、過去の自分への言葉でも、ある。



「本当にやりたいこと」を探す。
さて、では〈なぜ〉探さなければいけないのだろう?

もちろん個人差はあるが、その背景には「価値ある何かをしなきゃ
生きている意味がない」という、どこか強迫観念的な思考がある。

インターネットや書店のビジネス書、自己啓発などのコーナー
には、そういう気分をあおる何かがある。
真面目で純粋で、人生を真剣に考えるタイプの人であれば、
必然的にこういった情報のタネに出会うことだろう。

そういった情報に輝きを見てとれば、いまいる自分が苦しく
なるのもさもありなん。
どうしたって、その輝きと自分を比較してしまうから。

このメンタリティ、少し掘り下げると、

「あっちはいいけど、これはよくない」

という「格差」をつける視点が、染み付いていく。

まあ、そういう強迫観念で人生を苦しく生きる生き方もありだし、
そうでない生き方もあり……だけど、、ね。

苦しさをバネにしていく、そういう強靭なハートもまた、魅力的
なのかもしれない。


「よりよい人生」……

この言葉にも、多様な捉え方があるように、、
思えてならないんだけど……な。。





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2009年1月24日 (土)

彩り豊かな「健康法」

健康法。

わかりやすいところでは、たとえば「食」に関して色々
調べていけばわかるけれど、

あるところでは

「動物性タンパク質は必須」

といい、
また別のあるところでは

「肉食は危険」

といい、
またあるところでは

「玄米菜食」

を説き、
またあるところでは

「玄米は、人によっては合わない」

と説く。

これは「食」に限ったことではないけれど、いわゆる

「健康法」

の世界は、こういった多方面の、バラエティ色豊かな
彩りに満ちあふれていたり、する。

僕などは、最近では

「ああ、こういうのも出てきたか」

と、生意気にも上から目線(笑)で愉しむことにしているけれど、
最初の頃はおおいに悩んだものだった。

あっちこっちで言うことが違う。
どれもそれなりに根拠や実績があるのだし、その判断基準に
何を置けばいいのか、わからなかったからだ。


でもまあ、、、

最近では、そういうこともなくなった。

というのは、どれがよくてどれがよくない、どれが正しくて
どれが間違っている……ということは、結局、時と場合に
よって、またその方のニーズや感性、好み、体質や環境に
よって、いつも変わるからだ。

たとえば肉食はよくない、日本人には合わないとよく聞く。

しかし、動物性のタンパク質の摂取が、現代の平均寿命の
延びと無関係と、果たしていえるのかどうか。。

何がよくて何がよくないなどは、一律ではない。
それは見方や捉え方でも変わるし、その前提条件でも変わる。

これは「食」に限らず。

もっといえば、「健康法」でなくても、いえることだろう。


まあ、いま情報は、百花繚乱。
けっこうなことで、、。

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2009年1月22日 (木)

好きなだけ食べると、ヤセる?

2009年1月9日・東京新聞の『こちら特報部』。

その見出しは

「好きなだけ食べて脳が喜びダイエット」

というものだった。

僕はまあ、正直今でいう「ダイエット」ということに、
ほとんど興味がもてない。
もちろん男性だからということもあるだろうが、その
風潮に人間(特に女性)心理をついた商業主義的要素を、
ことさら感じるからだろう。

「均整」にも、「やせさせる」「太らせる」技術という
のは存在するし、はっきりいって効果もある。
僕の経験でも、男性だったが、一瞬でお腹の脂肪が減少
したケースもある。

「骨盤」へのアプローチもあれば、そうでないアプローチ
もあるし、それはそれで幅があるのが「均整」の特長。

今度、ワークショップでもやるか……。


さて、その「快食療法」。

「一万人 成功率97%」で、

「肥満の原因は脳の疲労にあり」という仮説が前提の
療法だという。

その原理は

1、自分で自分を禁止、抑制、強制することをしない。
2、自分にとって心地よい事を始める。

原則は

1、たとえ健康に良いこと(運動など)や、良い食べ物でも、
  自分にとって嫌いであれば決してしない(食べない)。
2、たとえ健康に悪いこと(食べ物)でも、好きでたまらない
  か、止められないこと(食べ物)は、とりあえずそのまま
  続ける(決して禁止しない)。
3、健康に良くてしかも自分にとって好きなこと(食べ物)を、
  一つでもよいから始める(食べ始める)。
(横倉クリニックのホームページより抜粋)

新聞では

「空腹感がなければ朝食は黒砂糖と水だけでいい」
「ケーキなど甘い物も、食事をとった後ならいくらでも」
「アルコールも結構」
「空腹なら寝る直前の食事もOK」

と、従来型のダイエット常識から相当逸脱したことが書いて
あり、なかなか興味深い。


生きている身体は、実際のところ同じ量の栄養素を同時に
何人かに与えたとしても、吸収される栄養量というのまで
同じになるとは限らない。

内臓の状態、空腹感、生体リズムや習慣、カラダのクセなど、
それらはみな各個人それぞれだから。

それに、同じ個人であっても、気分や体調はいつも変化する。


この方法のユニークな点は、人の本能(欲望)に直結している点。
がゆえに、それなりの高い成功率なのだろう。



あ、断っておきますが、別にお勧めしているわけではありません。

これもまたある枠組みから逸脱したケース、だと思うので。。


けっこう面白い……とは思いませんか?


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2009年1月21日 (水)

「とりあえず」という言葉クセ

人間は無意識に自分に鎖をつけている。

と、僕などはよく思う。



その鎖は往々にして本人の自覚的な行動やしぐさ
よりも、ふとした行動、ふとしたしぐさに出る。

つまり、通常人間の意識的な行動は、内面からの
漠然としたイメージが思考の対象となり、それが
咀嚼吟味されて、あるひとつの行動になる。

しかし、ふとした行動、しぐさはこの咀嚼吟味
という段階をスッと通り抜けて起こる。

たとえばどこか路上を歩いていて、信号が赤になり
立ち止まる。

さて、青になった。

その瞬間、おそらく日本に長年暮らしている人なら、
ほとんど反射的に歩みを始める。

その時の、「第一歩」を踏み出す脚は、…だいたい
決まっているのではないだろうか?

利き腕というのがあるのと同様、脚にも「利き脚」と
いうものがある。

軸になる脚と、推進力的役割をする脚は、だいたい
決まっている。

そうすると、必然的に「使い方」は習慣化すること
になる。。





実は、「言葉」の使い方にも、この習慣化はあてはまる。


たとえば、「とりあえず」という言葉。

「いま忙しいから、とりあえず後にして」
「とりあえずあそこにソレ置いておいて」
「とりあえず………」

最近では、割とポピュラーな言葉ではないだろうか。

この言葉の本来の字義は

1、ほかのことはさしおいて、何はさておき、まず第一に。
2、何する間もなく。すぐに。

という意味らしいけれど(『大辞泉』)、ここ最近の使われ方から
イメージされる印象は、こうではない。
どちらかといえば…

◯特に優先事項もないので、さしあたって
◯他はやりたくないので、さしあたって
◯まずはこのくらいで
◯一応こんな感じで

といったニュアンスで使われているように、思う。

さて、

この後者の意味合いでずっとこの言葉を使っている場合。

それはいい悪い、これがよくてあれはよくないという判断
基準は外において、どうなっていくかというと……

○大事なことを後回しにする
○都合のよい振る舞い
○言い訳がましい

印象を与える人物に、少なくとも近付いていくことになる。

言葉というのは、それを「思う」だけなら、影響も少ない。
ただそれが、一旦外に発されると、その瞬間から自動的に
「呪文」的な意味合いをもつ。


自分で発した言葉は、誰より自分に響いてくる。
つまりその言葉は、誰より自分が消化吸収するということ。
消化吸収された言葉は、食料同様に血となり肉となる。

それすなわち、「その人」を形成する要素、ということ。

身体調整をしていて思うのは、そういう「クセ」のある方は
だいたい筋肉に張りがない。
気も、よくいえば穏やかだが、それは裏を返せば気力に欠ける
ともいえる穏やかさ。



言葉もまた鎖。

ならば、その鎖は重くズッシリとしたものよりは、付けていて
快適な材質と重量で、自分自身にパワーを与えてくれるもので
あった方が……


生きていくうえでは、役に立つ……かも。。


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2009年1月20日 (火)

傾斜圧

傾斜圧とは

「神経支配によって支えられたある局所の運動系の
 生理的あるいは人為的な軽度ないし強度の収縮、
 弛緩現象である」
(機関誌14号復刻版・『身体均整法の概要』より)

1967年の文章らしい。

わかりやすく意訳すると、

「傾斜圧」というのは、要するに「ゆがみ」。

そしてその「ゆがみ」とは、脳によって統御された
「運動系」、つまり筋肉や骨格の部分的な過緊張や
過度なゆるみという現象のことをいう……

ということ。

「均整」では「ゆがみ」を、上記のように考えている。
そしてその「傾斜圧」は

1、異常傾斜圧
2、くつろぎ傾斜圧
3、防止傾斜圧
4、防衛傾斜圧
5、鍛錬傾斜圧
6、探知傾斜圧
7、応用傾斜圧

の7つに分類される。

つまり、ただ単に「ゆがみ」といっても、大別
すれば少なくとも7通りある、ということ。

この「傾斜圧」という概念を基本として、以前にも
少し書いたことのある「十二種体型」などの体型
分類論がある。



この当時としてはいかに先駆的だったか……。

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2009年1月19日 (月)

五十肩という身体現象

先ほど来訪いただいた女性の方。

背中の痛み、そして「左肩が上げると痛む」という。
それを癒してもらいたいという要望を受けた。

通常、医学的には

    「肩関節周囲炎」

や、一般的には

     「五十肩」

という名称で親しまれて(?)いる身体現象、、
のように見受けられた。

「見受けられた」というのは、僕は医師でも何でも
ないので、そういう「医学的診断」は当然できない。
なので、ここでは「そういう感じ」とする。


上記のような身体現象であっても、実際の身体を観察し
読んでいくと、千差万別。
100人いれば100通りの、状態がある。

今回、この女性は左肩。
女性がこの身体現象を訴える場合、左側だと「ふつう」。
と、捉えることができる。

男性なら「右」なら「ふつう」。

こういう場合は、比較的癒しやすい部類に入る。
これが逆だと…ちょっと注意がいる。



調整後、「どう?」と聞くと、「あ、上がりやすい」と
言われていた。

単純に

「肩」だから「肩」

という見方ではなく、その「肩」を中心に起きている周辺事情
全体を、まずは眺めることから、調整は始まる。

そのメカニズムや仕組みというものを、知る。
知ることから、何をしていくことが良いのか、その糸口が
みえてくる。

ある枠組みの中にいると、意外と「それがすべて」という
考え方になりがちになるもの。。

たとえば僕は海外に出たことがないのだが、聞けば国は

どこかわからないけれど、温暖な所で、男女とも薄着で
暮らしている所があるらしい。

そこでは川で水浴びする習慣があるらしいのだが、当然
女性も裸になる。
その時に、たとえば男性が来たとしたら、普通日本的な
常識では、胸や下半身を隠すだろう。

でも、そこでは「口」を隠す、らしい。

どうやら普段女性は唇に何かはめていて、それを外した
姿を見られることは何より恥ずかしいこと、という風習
の国なのだそう。

これを、日本的な観点から見たら「???」だけれど、
考えてみれば、イスラム圏では女性は顔をスカーフの
ような衣服で隠すし。。

身体に関しても、あるひとつの見方、その枠組みの
外側から眺めてみると、、、それまでナゾだった事柄
に、新たな視点がもたらされることも……

少なくは、ない。







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2009年1月17日 (土)

背く子 背かれる親

ここ最近、いわゆる「親子」関連の調整が増えている。

それは顕在化している場合もあれば、ご本人たちも
気づいていない場合も、ある。


往々にして、だいたい子供に何か不具合が起きている
場合は、何かしら親とのつながりが、観える。


「背く子 背かれる親」。
これは、知っている方にとってはいわずとしれた題名。
整体創始者、故・野口晴哉先生の潜在意識関連の著作
のタイトルである。

今日、久しぶりにその本を開いた。
いつ読んでも、その言葉は時に鋭く、時にじんわり心に
響いてくる。

それは単なる理屈や綺麗事ではなく、その根底に生きた
人間の営みの徹底した洞察が読みとれるからだろう。

たとえば、P.38の「親が子供に背いている場合」。


「『親の金を盗んだ。親の信頼を裏切った、背いた』と
 言っている人がおりましたが、親はたくさんお金が
 あって、子供は金がなくて、欲しい物がたくさんある
 としたならば、親に背いたというより、親を信頼した
 結果、親の金ならば親はあきらめるだろう、他人
 だったら罪になるが、親なら罪にもしまい、ということ
 になる。
 しかし、その親は『正直だと思っていた息子が、自分の
 金を盗んだ』と言うのです。
 『けれどもそれは別段背いたことにならない。他人の
 お金を盗んだら背いたかもしれないが、親の金を盗んだ
 のは、親を信頼しているからですよ』と、言いました。」

「今度は、高校生になる男の子が裸の女の写真をたくさん
 ベットの下に入れている。女の靴下やらいろんなものが
 突っ込んであったという親が来ました。
 ある時、掃除をしていてそれを見つけてびっくりして
 しまって、『いい息子だと信じていたのに背かれた」と
 言っていました。
 私が「それは成長が健全にいっている。つまりインポ
 テントではない。成長不完全状態ではない。もう高校生
 になって、正常な働きが育ってきたので、背いたとか、
 背かれるとかいう問題ではないではないか」と言ったら、
 すぐに話のわかった人もいます。
 ところがわからないで、背かれたと言って、すぐにその
 ことで息子を責めると意気込んでいる人もいます。
 叱って責めて、成長を抑えるようなことを考えていると
 したら、親が子に背いている状態ではないだろうか。」

ここで説かれていることは、いわゆる道義論では、ない。
そういう頭で構成された、「こちらの都合に従いなさい」的な
論理からすれば、確かに理解しにくい面もあるかもしれない。

たとえば「○○はするのが普通なんだから、しなさい」と強制
されると、誰だって窮屈さや違和感を覚えるだろう。
でも意外と、自分の子供には、それをやってたりする。

そのことに対して反発をその場で表現できる子供もいれば、
寝小便などの形で表現したりする子供も、いる。

その窮屈さを無意識では感じるものの、意識にはのぼらず
心の格納庫に収納するクセをつけてしまう子供も、いる。

格納庫に入りきれなくなったり、あるいはその格納庫を
開ける気力や体力が備わった場合に、起こす行動はまた
その子供自身を表現する。

「喧嘩には絶対に負けて帰ってくるな」と、昔よくある
タイプの育て方。
これを言う親にもいろいろなタイプがあるだろうけれど、
最悪なのは「俺がそうだったから、お前は当然そうしろ」
というタイプ。

その期待に応えられる気力や体力、またそういう感受性
のある子なら、それで伸びるのかもしれないけれど…。
(もちろん、道義論は抜きにして)

またその親が、いろいろな場合に適切なフォローを入れる
ことができるのなら、いいのかもしれないけれど…。


そうでない子には、残酷な期待、かもしれない。



ともあれ、時代がどのように移り変わろうとも、まず
このテーマが消えることは…ないように、思える。


「親」と「子」。

「背く」「背かれる」というのも過激な言い回しだけれど、
そこには深い意図が…見え隠れする、、な。。



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2009年1月16日 (金)

「saku saku」にて…

朝7時半からテレビ神奈川で放送している

「saku saku」

という番組。

週に何度かこれをみて、NHKの朝ドラをみてから駅に
向かうというのが、だいたいのパターン。

その「saku saku」で、「みんなでうたおうZ」というコーナーが
だいたい週に1回くらいあり、今日がその日だった。

当初は神奈川県内の街をテーマに、ここの「黒幕」先生が歌を
作って歌うコーナーだったのだけれど、最近では神奈川が終了
したのか、関東近県だったりしている。

今日は、東京都羽村市のうた。

「ふ〜ん」と何気な〜く聞いていると、

「…ティックnote

と聞こえてくる。

そこで画面をしっかりみると、詳しい歌詞は忘れたけれど

「ハムラティックnote
「はむらな感じnote
「はむらっぽいnote

みたいな歌詞がポンポン出ていた。。

実は「タムラティック」も、「たむらな感じ」とか
「たむらっぽい」みたいなイメージで閃いたもの。

ここの黒幕先生、独特のユニークなセンスをお持ち
の方のようだから、、、そりゃあこういうゴロに
気がいかないワケはない…わなcoldsweats01

少し、ビックリした朝でした。。


ちなみに、

MCの中村 優さん。
以前、下北沢のタイ料理のお店で、お見かけしたこと
がありました…catface

まあ、余談ですが……smile






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2009年1月15日 (木)

記憶力増進の一手法

一説によると、人間の脳の神経細胞は約1千億個だと
いわれている。
(『脳の仕組みと科学的勉強法』ライオン社)

一般の新聞の文字数が、朝刊でもだいたい40万字前後。
単純に計算すれば、約700年分。

この数字、一千億という数字がどう計算され弾き出される
のかは知らないが、現代脳科学ではこう言っている。


眼耳鼻舌身意…あらゆる感覚器官で得た情報すべてを脳で
処理しているのだとすれば、脳は5分以内で限界を迎える

……らしい。

「らしい」というのは検証しようがないから、この神経
細胞の数などから容量を計るとだいたい…そうらしい。


そうすると、脳にとっては基本的に覚える機能よりも、
むしろ忘れる機能の方が大事、ということになる。


脳科学的見地からすると、脳が記憶できるものは一般に
2種類あるとされていて、

◆感情がからんだ出来事
◆本人が覚えようと意識した物事

であり、その理由は生命にとって必要であると脳が判断
するから…と言われている。

どうも論拠が……な気もするけれど、そうらしい。


さて、これ以上は興味があれば上記の本を参照されたし。
気鋭の脳科学者、池谷裕二氏の著作で、面白い。



上記のようなアカデミックなものを参考に、身体の調整で
「頭脳」の能力を向上しようとすると、どうなるか?

耳の後ろ側に「乳様突起」という、頭がい骨の部位がある。

これは、頭がい骨の15種23個ある骨のうちの「側頭骨」
という骨の末端部にあたる。

けっこう昔から、「側頭部は記憶の中枢」という理論はあり、
「均整」でもこの説を論拠にしている。

脳にはそれぞれ部位ごとに役割があるとされていて、記憶に
関わるのは、耳の奥あたりにある「海馬」という部位。
タツノオトシゴみたいな形で、左右にある。
ここがいわば「記憶の製造工場」だといわれている。
(ちなみに、「保管」は大脳皮質)

身体内外の相関関係を読み解くと、上記の「乳様突起」の
形の有り様と、記憶の能力には関係があることに気づく。

だいたい、後ろに飛び出る、耳との距離が離れていると
……あまり能力が発揮されているとはいえないようだ。

この左右がうまく整うと、知的作業の持続性が高まり、
記憶力も増進すると、「均整」の資料に残っている。

「乳様突起」は、ほかにも骨盤、生殖器や血圧など、
多様な作用をする部位でも、ある。


まあ、論より証拠、理論より実際……だぁね。。












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2009年1月14日 (水)

手足、指を使った身体の調整

昨日の「経絡」の記事にからめて。

一般に、「経絡」と呼ばれる気のパイプラインは12本
あるとされていて、この12本をさして「正経12経」
といわれています。

そしてこの12本にはそれぞれ名前があり、それぞれに
対応する臓腑(ぞうふ)があるとされています。

一応記しておくと

手太陰肺経→手陽明大腸経→足陽明胃経→足太陰脾経
→手少陰心経→手太陽小腸経→足太陽膀胱経→足少陰
腎経→手厥陰心包経→手少陽三焦経→足少陽胆経→
足厥陰肝経

となり、このように気は流れるということになっています。

ここに、身体の前面に任脈、後面に督脈と呼ばれるライン
があり、これらを合わせた14経脈という考え方が現在は
一般的となっています。


上の12正経には、それぞれ「手」や「足」とついて
いますが、これはそれぞれ

「手を流れている」
「足を流れている」

ということを意味しています。

これはつまり、手足にもたくさんの経穴(ツボのこと)
があることを意味していますので、それらを機に応じ
調整に利用することができます。

この手足、そして各経絡と対応する指先を用いること
に長けてくると、それだけでほぼ万遍ない領域に対応
することが可能になります。

どう応用するのか?

それは定型化されたものもあれば、新たに自分で見つけ、
発展させていくという面もあります。

身体のもつ可能性は、それだけ深く広いものです。


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2009年1月13日 (火)

経絡による身体の調整

「経絡(けいらく)」を使った身体の調整手法も、「均整」
には数多くある。


明治・大正・昭和にかけて生きた、天才的鍼灸家として名を
現代にまで残す、澤田健という方がいる。

今のように情報などほとんどない時代。
その数少ない情報のなか、流入していた中国医学の古典類—
素問・霊枢・和漢三才図会・十四経発揮・難経—を実践的に
研究し、独自の太極療法を創案された。

「均整」の「経絡」の手法には、この澤田流の影響が色濃く
感じられる。

また、いま全国的にチェーン展開される英国式ではない、
手足と内臓との関係を徹底的に実地検証して、昭和の初め
に足の健康法の草分けである「足心道」を創案された柴田
和通氏の影響も同様に色濃く感じられる。


これらは実際にその時代、出色の療法として知られていた。


「均整」の創始者、亀井師範の発想で特徴的なのは、

「なぜ、それが効果があるのか」

を分析し、解明して「均整」的にアレンジするという
能力だろう。

「均整」的というのは、要するに「ゆがみ」という見地
から、ということ。

「経絡」の利用も、この視点が生きている。



「経絡」というと、どこか怪しげな響きがあるかもしれない。

でも、忘れてはいけないのはつい最近まで東アジアの国々では
この「経絡」を利用した鍼灸とその国なりの薬草(漢方薬)、また
現地独特のヒーリングなどだけで「病」を癒してきたという歴史。

その数千年単位の、長い人の歴史の積み重ねのなかで、多くの失敗
をへながら洗練されてきたものだということ。

その恵みが、いつかあなたを救うのかも、しれない。






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2009年1月 9日 (金)

痛みの処方

痛み。

こういう文字を見るだけでも、どこかが痛むと
いう方もいる。

それくらい、「痛み」は心の不安現象と現代では
結びついている。


この不安現象は「何」から起きるのか?
かつての人間は、果たしてそうだったのだろうか?

いま、未曾有の金融不安といわれている。
この件に関してのメディアの取り上げ方と、「痛み」
への不安現象の起きるメカニズムの底辺は、似ている
ように思えてしまう。


「均整」では、ことさら「痛み」を対象とした術技は
幅も広く、量も多い。

筋肉や関節などの運動器。
胃や腸、腎臓などの内臓全般。

神経痛・痙攣・炎症・疼痛それぞれへの対応。

戦後の医療改革のなかで虐げられてきた民間療術で
ありながら、その渦中に「使える」手法をかき集め
自流に編纂していくという作業は…ただ驚嘆に値する
ほどの労力と能力だなと、、、

いまにして、思う。




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2009年1月 8日 (木)

サイトエントリー、再構築開始

ふう。
ようやくひとつ、書き終わった……。

また先々書き直しするのだろうけれど、いま
現在としては、おおむねこんな感じだろう。


ホームページを構築する際、過去もっとも悩んだ
のは、あたりまえのことだが

「いろいろな人が見る」

という点。
これ、実にあたりまえのことながら、これを意識して
構築するとなると、実に大変。


いまのサイトの前に、僕は2つ(以上)サイトを立ち上げた
ことがある。

僕のパソコンはマックなので、当時ソフトも少なく、また
メカニズム自体まったく一から始めたのでだいぶ苦労した。

でも、何より苦労したのは、文章。

ずいぶんとライティングも研究したし、表現方法も過去
いろいろ工夫してきた。

「どう読まれるか」、それを自分のなかで反芻しながら書く
ことで、ずいぶん精神的な疲れも溜めた。

「こう書けばわかってもらえるかな?」
「こういう表現だと、心に浸透するだろうか?」
「これだと、誤解されちゃうし…」

などなど、ずいぶん臆病なこと(笑)。

いまとなっては懐かしい。

そういう時期をへて、「どう読まれるか」は、結局その人
次第なのだと、ハラから思えるようになった。


小手先のテクニックで、本当に人の心を動かすことはできない。
いま思えることを、そのまま書くことだけ、考えればいい。


まあ、どっちみちいまの文章では心に響くことは、ないだろう。
それもまた「自然」なこと。

よければ、今後も少しずつ更新していきます。
お時間ある時に、読んでみられてください。
(よければ感想、いただければ有り難いです)


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2009年1月 7日 (水)

断食

5日から、軽く半断食している。
年末から正月にかけて、疲労した内臓の回復を
はかるには、僕にとってこれが一番たやすい。

長期の本断食となればかなり気合いも準備も
いるけれど、3日程度の、軽い半断食であれ
ばそういったこともいらない。

よく「断食は危険だから専門家の指導を」と
いうことを聞く。
でも、そんなこといっていると何もできなく
なるし、やってはいけないと思ってしまう。

確かに、本格的な医学的治療としての「断食」
を敢行しようとするなら、それは必要なのかも
しれない。

でも、「危険」ということにこだわり過ぎる
のもいかがなものだろう…か。




9〜10年前のこと。

年末、まるまる1週間リンゴだけの断食を敢行
したことがある。

大晦日に断食明けを迎え、そのまま友人と横浜に。


通常、断食は実行したその「後」が大切とされる。

一定期間食べないことで内臓諸器官はクリアになる。
うまく行えれば、精神的なクリアさも実感できる。

ただその反面、食の栄養は遮断することになるから、
その期間は筋肉は削げ、皮膚は張りを失う。

もちろん、終了後「適切」な回復をはかっていけば
それ以前より張りもツヤも出てくる。

神経系や感覚器官の働きも高まるので、目はスッキリ
するし、嗅覚も味覚も敏感になる。

雑念が減るので、この間にいろいろなアイデアが浮かぶ
ことも、ある。


ただ、それが「適切」でなければどうなるか?
そういう実験めいたことを、実際に自身の身体
で試してみる習性が、僕にはあったりする。



その大晦日、横浜にてカウントダウンを迎えた。
男二人で、横浜で断食明けの

「祝杯」

を挙げた。

その後、中華街にて…中華麺。。。

友人の会計を外で待っている時に、僕は
気を失った。。


アルコールに大量の油。
いま考えれば、断食明けにこれは自殺行為にも
等しい。

でも、「人間はどこまで大丈夫か?」みたいな
ことを、この当時は確かめたかった、のだろう。。

いつも思うことながら、まったく愚かな。。


さすがに、それ以降はそこまでの無茶はしない。
けれど……


昨年は、月一回3日間のペースで3月から10月まで、
フルーツ断食を行った。
これも、通常の考え方からすれば…無茶な部類に入る。

でも、実行した結果からいえば……非常に良好。
全身の停滞していた気血の流れが回復し、感覚器官も
鋭敏さを増したように思う。

しっかりと栄養学的に管理したり、まったく危険の
ないように理論武装して臨むのも、ひとつ。

身体の声に耳を傾け、そこからいまやるべきことを
導き出していくのも、ひとつ。



それが本当に「危険」なのか?

意外と、やってみないとわからないことも……

多いような気が、する。



ちなみに、その友人は僕と同じ期間同じように
フルーツ断食をし、同じようにアルコールと油を
摂取したけれど……全然平気だった。。



結局、個体差???





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2009年1月 6日 (火)

木に学べ

お正月。

30日から4日まで休みをとったわけだが、この
くらい長期間休むというのは、僕にとって初めて
のこと。

そもそもついこの間までは「休む」という発想も
なく、いつも何かで動いていたり、考えを巡らせ
ていたりしていた。

それはいわゆる「実益」とは関係ないことが多く、
結果身心を疲弊させていく方向性だった。



疲労は、蓄積する。
それは、いわゆる「疲労物質」などという物体と
して明らかになるものばかりでは、ない。

もっと微細な、もっと非物質的なレベルで、全身
にまとわりつき、なかなか離れない。

蓄積されればされるほど、身体は重く、気分は淀む。

どんな元気溌剌とした性質の持ち主でも、このテの
波動にまとわりつかれれば、そう溌溂としてはいら
れなくなる。

いかに溜めず、抜くか。
それを心掛けるだけでも、「病む気」を遠ざけるため
には、役に立つ。



「木に学べ」
という、本がある。

法隆寺・薬師寺の修復・復元作業に関わった、最後の
宮大工棟梁と呼ばれた西岡 常一氏(故人)の語りをまと
また本。

以前にもサッと読んだが、いま読むとまた違うだろうな
と、この正月に読もうと決めていた。


読む人により、さまざまな読み方ができる本だと思う。
もちろん単純に仏教建築の視点から読んでも面白い。

しかし、たとえば……

揃えてしまうということは、きれいかもしれませんが、
 無理を強いるということですな。
 木には強いのも弱いのもあります。
 それをみんな同じように考えている。
 昔の人は木の強いやつ、弱いやつをちゃんと考えて、
 それによって形を変え、使う場所を考えていたんです。

(P82)

この文章などは、そのまま人間に置き換えてみることも
できる。

「身体も同じだな」
そう、読みながら思いを巡らせた。


 

冒頭、

棟梁は、木のクセを見抜いて、それを適材適所に使うこと

とある。

このコトバの底にある意味が、本全体に徹底して貫かれている。



また、折をみて、読もう。。。




 


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2009年1月 5日 (月)

年頭のご挨拶

明けましておめでとうございます。
本年も、何とぞ宜しくお願い申し上げます。

2009年 1月5日    田村 竜治

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