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2008年11月

2008年11月29日 (土)

挫折3

たとえば、医学的にいえば同じ「A」という病的現象が
あったとする。
組織の変性や検査機器のデータなどから判断し、「A」
という結果がでれば、それは個々の身体・心理的特性
の如何を問わず「A」である。

身体の調整を、「○○の場合は◎◎」というように
マニュアルに沿ってのみ行うことは、このような
統計的手法と、どこか似ている。

はまれば、強い。
その範囲においては、目の覚めるような終幕を体験
させてくれる、素晴らしさがあると思う。

ただ、どのような場合にも、例外はあるだろう。
それが俗にいう、「落とし穴」、をつくる。




身体調整のプロセスで、もっとも大事なこと。
それはいわゆる調整技術では、ない。

名手と呼ばれた先人たちが、もっとも重要とすること。
それは、「均整」では〈観察〉と呼ばれている。




「均整は、観察に始まり観察に終わる」

最初の師はよくこう言っていたし、その後出会う先達も
みな、一様に似たことをいっていた。

かくいう僕も、後輩の方々に教える際は引用する。
その難しさを知りながらも……。


その日、僕はこの〈観察〉を怠った。
いや、怠ったつもりはないが、結果そういわざるをえない。

どこかで「○○には◎◎」的な思考が走ったのも事実。



人の、いや生命ある身体の、精緻微妙なシステムを、
改めて思い知らされた出来事だった。

























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2008年11月28日 (金)

挫折2

手技療術において、というよりは「療」全般において
受者への介入が少ないほど〈上等〉とされる。

要するに、あんまり手を加えないでよい方向へいけば
それだけ無理も少ないわけだから、当然といえば当然。

そのため「均整」でも「整体」でも、必要のないこと
はやらないように説かれている。


でも、その「必要のない」領域を術者(ここでは僕)が
知り得るには、それこそ自得する以外にない。
そして、たとえ「必要のない」ところまで身体が変化した
としても、受者の自覚症状が変化しているとは限らない。

初期のころから昨年まで、この点では実に悩んだ。

自覚症状が変化しないと、ふつう納得はしてもらえない。
また、術者も後で変化すると思ってはいても、そこに確信が
ないから不安になり、ついよけいな手段を加えてしまう。

と同時に、「長くじっくりやってもらうことが親切」という
ような既成概念が双方のどこかにこびりついていたりする
から、あまりに早く終わると術者には不安が、受者には不満
が残ることが、ある。

こうした不安。
そこからくる焦り。

そして、経験を重ねることで自身に知らず生じてくる慢心
という影。

これらが形として現出した時に、起こること。


起こることは、必然的に起こる。
その観点からいえば、「失敗」というのはあまりに自己中心的
な表現ではある。


ここではあえて、そう記そう。

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2008年11月27日 (木)

挫折

【TAMURATIC】の主要な手法の大きな特徴。
それは、受者の方に悪影響が起こる可能性が相当に
低いということだろう。

「ない」とまで言い切ってしまうと多少語弊がある
とは思うが、少なくとも可能性は相当低い。


ここにくるまで、種々さまざまな出来事があった。


ごく初期の頃は、その大小はあるもののよく失敗を
していたなと、いまにして思う。
もちろん、その当時は必死だから、意地でもなんとか
していたワケだが。。


しかし、昨年、本当に久しぶりに失敗をした。
そして、久しぶりだっただけに、かなりショックだった。

もちろん、事故というような失敗ではない。
ごく小さな、でも自分にとっては大きな出来事だった。

この時から、

「失敗のない」

手法を模索し始めた。

その模索の一形態が、いまの手法である。




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2008年11月26日 (水)

身体開発という視点

僕は、24歳で「均整」を始め、それ以後種々様々な
タイプの身体に関わるメソッドに触れてきた。

それはとってもディープなレベルの身体に影響を与える
ものもあれば、ごく軽微な影響しか与えないものもある。

いまとなっては「これ、どうかな…」というようなもの
もあれば、時代を超え語り継いでいくべきものもある。


そういうなかでも、「均整」はユニークである。
それが故に、いまでも僕は「均整」を大事にしている。


何がユニークかというと、端的に

姿勢開発
美容開発
頭脳開発

という3つの要素から技術を構成し、それがうまく
ブレンドされている点が挙げられるだろう。

「姿勢開発」は、文字どおりである。
「あらゆる身体の不調は姿勢のゆがみから」がメイン
コンセプトであり、核となる部門である。

「美容開発」は、やせる・太る・ウエストを細くする
目をパッチリする・脚を引き締める……など、今時の
美容業界もよだれを垂らすようなテクニックが豊富に
あるのが「均整」の隠れた(?)長所である。

「頭脳開発」は、思考力・記憶力・行動力など、脳機能
に即した部位に刺激を送り、これらの能力の向上をはかる
ものである。
机上の空論ではなく、実際に成果が期待できる。
いまなら脳機能の研究も進んでいるので、さらに成果の
上がる手法が生み出せるのではないだろうか?



僕自身、これまでは上記でいえば「姿勢開発」に力を
注ぎこんできた。

でも、来年からは、ほかの2つにも力を注いでいこうか
という気に、なっている。

特に「頭脳開発」は、大きな可能性を秘めている。
かつては受験などに役立てていたようだが…。



「身体開発」。

これを具体的に提供できるところに、「均整」という
手法の醍醐味がある。

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2008年11月25日 (火)

調整空間

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こちらに来てだいたいの方はまず、

「あんまりモノのない、質素なとこ」

という印象をもつかもしれません。

最近は本棚を脇の方にびっしり置いているので
そういうこともなくなったかもしれませんが、
つい半年前までは、ほとんどモノらしいモノは
置いていませんでした。


今時のフローリングではなく、畳敷きの空間。
そのうえに更に畳を敷いた独特のベッド(?)に
横になっていただき、身体調整は行われます。

よくあるサロンやエステなどの映像や写真の
イメージが脳内常識となった現在では、この
スタイルはいささか奇異に映るもの……
とは思うものの、ここにいる間はこのまま
いくんだろうな〜〜。


キレイで豪華な装飾という付加価値を剥ぎ、
可能なかぎり質素な調整空間。
そこで問われるのはコンテンツ、つまりボク自身
そのもののあり方と、いえるだろう。


まあ、あんまり説得力、ないけど、ね。。


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刺激をとばす

「均整」には、さまざまな刺激の手法がある。

「刺激」というのは、「押す」「揉む」などの
手による技術を身体に行使することをいう。


実は「均整」では、ただ単に「押す」「揉む」と
いう刺激を行使することは、実は非常に少ない。

「伸ばす」「叩く」「弾く」「触れる」など、多種多様
でバラエティに富んだ刺激の仕方が、「均整」の大きな
特徴でもある。

これは、創始者健在時に手技の科学化を目指していたこと
もあるが、一元的で画一的な手法では到底多様な身体の
起こす病的現象には対応できないことを、実際の臨床から
読み取っていたこともあるだろう。


ただ単に「楽にする」「気持ちよくする」ことが目的なら、
別にそこまでする必要はない。
より深い闇からの解放を願えばこそ、可能性を追求する
意味も必要も、ある。



その刺激の中でも、「均整」の特徴的な考え方のひとつに

「刺激をとばす(飛ばす)」

というものがある。


たとえば、お腹の一点に違和感があるとする。
その一点、直接触れるといやな感じだといって触れない。

このような時に、たとえば脚から「刺激をとばす」。
違和感のある部位に直接触れることもなく、その部位の
調整が可能となるワケだ。

「とばす」といっても、何か特別なことをするわけでは
なく、上述の「押す」「伸ばす」「叩く」などを状況に
応じて組み合わせて、その部位に「とばす」意識をもって
刺激をする。


昔から、末端(手足)をうまく使うことで身体異常を解放する
ことは上手な証のようにいわれているが、「均整」の利点は
この考え方が最初の一歩からある点、

だったのだろう。



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2008年11月24日 (月)

健康について

「健康」を求めない。
なぜなら、それはすでに達成されているものだから。

と書くと、何かヘンな思想の影響かという人もいるし、
実際に「整体」ではそういう方向性の思考をするので
その影響かという人もいる。


しかし、そういうことでは、ない。



平凡社新書『「健康」の日本史』によれば、日本人は
江戸時代までは運動なんてしなかったという。

「運動不足だのダイエットだのと騒ぎたて、日本人が
 運動を始めたのは明治時代から」
という記述がある。

「健康」という概念が、どうつくられていったのか?
を知る意味でも、なかなか面白い本だと思う。


僕のホームページを開くとすぐに

「不健康から健康へ」

という見出しが目につく。

この記述、体調が悪い=不健康ということではない。
どちからというと「不健康」と思ってしまっている
心の有り様を、ターゲットにしている。

その思いを、ただ反転しさえすればそれはもうすでに
「健康」である。



概念など、その程度のことではないだろうか。


こう考えるようになってから、「健康」云々を追求する
のが止めにした。








 
















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2008年11月21日 (金)

【TAMURATIC】 〈後編〉

率直に驚いたのは、私は手首が痛いといっている
のに、その手首にはほとんど触らないことだった。

その【TAMURATIC】の主曰く

「だって、手首が悪いんじゃないんでしょ?
 ただ痛いだけで」

……まあ、確かにそうなんだけど。


あおむけで足首、骨盤、ろっ骨などを、よくわからない
くらいソフトに調整したらしい。

メインはうつぶせでの、背骨の調整らしかった。

「指で直接背骨に触れて、その弾力やゆがみの状態を
 調べます。
 それと同時に、気で観ていきます。」


聞けば、背骨のひとつひとつに役割があり、前後や左右
などの動作や、内臓、ホルモンなどにも関係しているらしい。
それだけでなく、気分や感覚まで反映しているとも。




……その調整は、ほとんど触れているだけ。
何をされているのか、皆目見当もつかなかった。

でも、確かに硬いところは柔らかく、つまった感じのところは
拡がった感じがする。
気分も、何となくさっきよりも明るく感じる。
全身が暖かく、スッキリしたようだ。

「○○さんの停滞していた気が、うまく循環するように
 なった、ということですよ」

と、【TAMURATIC】の主はいっていた。



調整は、時間的には20分くらいだった。
これは個人差があるらしい。
わかりにくい人や変化しにくい人だと、40分くらいかける
場合もあるそうだ。



「手首、いかがですか?」
私「……そういえば、なんだか軽い…」

「念のためもう一度言っておきますが、『治療』ではないです(笑)。

 でも、つまりや偏りが調整され、気が流れるようになると…まあ
 そういう変化を身体はしてくれるようですよ。」

と、その【TAMURATIC】の主は、少し微笑んだ。


不思議な感じだった。
「整体」というイメージから、グイグイ押されたりバキバキされたり
するものだと思っていただけに、あまりにあっさりと終わったし。


「よく言われます。
 『結局、何やってんですか?』って(笑)。
 でも、言葉で云々言っても…ね。
 自分の身体で感じる。
 まずは、そこが出発点かなと。」



確かに説明しがたいわな、こりゃ。








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2008年11月20日 (木)

【TAMURATIC】 〈中編〉

ひとしきり手首のことや、日常の気になることなどを
話してみた。

その人は、時折相づちは打つもののこれといったリアクション
はせず、何かを自分のなかで確認するように聞いていた。

「……わかりました……、では…」
と、まず来訪者であるこちらの現状を聞いてから、いろいろな
説明を始めるスタイルのようだ。



そして、開口一番、意外なことをいわれた。

「ここは、いわゆる治療院ではありません。
 ですので、『何かを治す』的な発想ではありません」

……ええ〜〜!!
友人の顔を思い出し、あの人私を騙したのかな〜、という
思いが一瞬よぎった。




でも、よくよく聞いていくと、どうも違うらしい。

「○○さんの手首、病院の検査では異常なし、ですよね?
 ということは、ある意味痛みはあるけど、そこが悪い
 わけではない、という御墨付きを病院でいただいたこと
 になりますよね?」

「そこ(この場合手首)が痛むから、そこに何かを施す。
 それは病院でいう治療の発想ですよね。
 でもここでは、そういう発想ではないんです。」

「たとえていえば、車のラジエーターかどこかが壊れた、
 そしたらそれを修理あるいは交換すれば車はOKです。
 でも、人の身体はそう単純ではないことが多い。」

「あるひとつの部分異常は、常に全体を表現している。
 ですからその手首も、身体のシステムや心の状態まで
 反映している、という見方もできます。」


……確かに。
私はよく鼻血を出すが、鼻血が出るからといって鼻が悪い
わけでは全然ないし、風邪ひいても鼻あんまりつまらない。

手首が痛むから、手首が悪いとは限らない。
そういわれれば、確かにそうだ。

「こちらでは、主に背骨を状態を指や気で確かめ、その
 つまりや不具合を調整しています。」

私「…背骨と手首って、関係あるんですか?」

「神経というのは、実は背骨を中継して全身にネットワークを
 張っているんですよ。
 あと、手首は……骨盤と深く関係します♪」

……神経系の話は納得できるが、「気」で調べるとか骨盤と
関係するとか、さっぱり理解できない。

けれど、何だか自信たっぷりにいうし、私の知らないジャンル
でもあるし…。


「まあ、僕は基本的に『まずは体験しましょう』というスタンス
 ですので。
 理屈はしょせん理屈ですからね。」

「ともかく、やってみましょうか?」


……いよいよ、「身体調整」の体験だ。







 



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【TAMURATIC】 〈前編〉

なんだか手首が痛む。
どうも動きが悪いし、何となく熱をもっている
ようでもある。

数日間続いてるし、心配だから病院に行こう。
やはり手首=関節だから、整形外科だろう。

レントゲン……何でもない。
でも、その医師は親切で、直接手首を触って熱っぽさを
感じてくれた。

とりあえず、湿布をくれた。
これで様子を見ようということだ。


……数日、痛みは変わらない。
湿布は気持ちいいけれど。

病院に行く。
また、同じ処置。


ある時、とある整体(?)を友人に勧められた。

「整体」と聞いて、一瞬「ん?」と怪しむ気持ち
も出てきたものの、その友人は信頼できる人だし、
とりあえず行ってみることにした。


【TAMURATIC】という、何とも奇妙な名前らしい。

行ってみたら、一見普通の家屋のよう。
そこの2階を間借りしているらしい。
こういうジャンルに縁のない私としては、内心
とても緊張している。


「ピンポン♫」……ほどなく玄関が開き、中に入る。

「はじめまして♪」と、中では聞いていたように
30代くらいの男性が迎えてくれた。
作務衣を着ている。


部屋に入ると、広い畳敷きの部屋だった。
いわゆるマッサージサロンとも違うし、病院的な
雰囲気はまったくない。
むしろ、あまりにあっさりし過ぎてちょっと拍子抜け
してしまうほどだ。



「どうされましたか?」

声のトーンも低く、どうやら愛想もよくはないが、
聞けばキャリア10年以上らしいし、たった独り
でここを間借りして運営しているのだから、それ
なりに力はあるのだろう。

あの友人の勧めでもあるし、ここはいろいろ話して
みよう。

「実は………」





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2008年11月19日 (水)

からだのはなし2〜右と左〜

「身体は左右均等があるべき姿」
「バランスがいいとは左右が揃っていること」

と、常識のように言われることがある。



「シンメトリー」という言葉がある。

たとえば美術でいう「シンメトリー」は、対象物の中心から線を
ひいて、その左右対称な様式の美をいうのだそうだ。

これも、実際の人間は左右が完全に対称になることはないから
こそ、内なる憧れからの想像が美となるのだろう。



解剖学的にいっても、身体の右と左にある臓器は異なる。

肝臓は右にしかないし、すい臓は左にしかない。
内臓逆位といって、内臓の配置が通常と真逆に生まれてくる
場合もあるが、そのような場合を除けばこうなる。



「均整」でも、身体の左右の役割のちがいには多少言及
しており、たとえば自律神経系との関わりでいえば、

右=副交感神経
左=交感神経

的な作用をする。

男女という性差でいえば

右=男性
左=女性

に、不具合が出やすいなどである。


これらにはヨーガの身体観や「整体」との関連性など
がうかがえるものの、実際の臨床場面では非常に有用
である。

僕などは、身体の右側と左側はそれぞれ役割がちがうの
だから、うまく「協調」して働くように、ということを
念頭において身体と関わっている。



身体の調整においても、同様。





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2008年11月18日 (火)

効かせる操法

「『均整』は効くのでなく、効かせる操法である」

これは創始者である亀井師範も言っていることであり、
僕の直接の師もよく言っていた。



この発想自体は別に「均整」のオリジナルではなく、
鍼灸などで昔から使われている言葉だ。

「○○をやればおなかの痛みが軽減する」
「ひざの痛みには○○を使えばいい」

などは、あらゆるジャンルにわたり枚挙にいとまが
ないほど伝わっている。

こういった伝承が、実際の臨床の糸口となることも
数多くある。

ただ、人の身体はそんなに単純ではない。
その伝承がそのままその身体にあてはまるかどうかと
いう問題が、常につきまとう。

それがあてはまらない時どうするか?
そこに、実際の臨床の難しさがある。

その時、「効かせる操法」であるという本当の
意味を理解しているかどうか、が問われるのだ。




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2008年11月17日 (月)

呼吸の間隙2

僕が三鷹にある「均整」最初の師のもとに
週1回学びに通っていた時のこと。

ある時

「『吸気の頂点で抜く』なんて簡単にいうけど、
 私でも本当にそれができたと思えるのは年に
 1度あればいいくらいしかない」

と言われたことがある。



『頂点で抜く』とは「均整」の専門用語みたいな
ものであり、独特の表現。

たとえば、ある筋肉を伸張させる。
その時受けている人の吸った息の頂点、つまり
吸う息から吐く息に変わるその「刹那」に、そ
うされたとわからないほど柔らかく、でも瞬間
にその伸ばした手をゆるめる(抜く)ことをいう。

おおむね「頂点=刹那」、と理解いただければよい。

ただし、イメージとして「刹那」は一点。
「頂点」はその一点を含めたより広い範囲をいって
いるようだ。



師にそういわれ、その時は漠然ととらえたが、後に
その真の意味が理解できた。


75分の1秒。
常人離れした集中力がなければ、まずその「刹那」を
とらえることはできないだろう。

集中力、というよりは瞬間との融合力という方がより
近い感覚かもしれない。

しかもその瞬間に技術を為す………。




この「刹那」。
野口晴哉氏の表現では「呼吸の間隙」。

「均整」や「整体」を極めようとすると、必ず
このカベに突き当たる。

ここを自由にできる段階に至って初めて「呼吸の技術」
を体現できたといえるのだろう。




まだまだ、僕にとってこのカベは高くそびえ立っている。











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2008・11・15 鎌倉にて

毎回、それなりに趣向を凝らして実施している
鎌倉での講習会。

もう少しで5年になる。


 

もちろん、縁あって来ていただいている方に
何らかの福音があることを前提として、僕と
しては、年に何回かの自己研鑽の場であり、
自己確認の場としての機能をもたせてもいる。


これを始めた端緒。

「均整」などの日本で育まれた伝統的な手技療術
の良さを、どう現代で伝えていくかということを
実地検証する必要性も感じていて、それにはまず
体験してもらうこととの思いもあった。

また、自己の空間やフィールドだけでしか通用しない
ような実力ではしかたがないという思いもあった。

狭い空間、狭い視野でのみでやっていると、どうし
ても独善的で排他的にならざるをえない。
それがたとえ、通常の常識ではあり得ないような結果
を導いていたとしても、僕はそうなりたくはない。

それには生来臆病で小心な自分のためにも、ガチな
真剣勝負の場を創ることだとの思いもあった。


今回からしばらくは

「身体調整」の体験

を、その場でしてもらうという内容。

説明も少しで、まずは自分自身の身体で、その
変化を実感してもらおうというものだ。



 


4名の方に御参加いただきました。
それぞれの方々に喜んでいただいたようで、
良い会になったと思います。

ありがとうございました。

Ca3a0080

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2008年11月14日 (金)

10年という月日

横浜市青葉区、キレイな街並みで名を馳すたまプラーザ。
来年、2009年の2月でこの地域に来て丸10年になる。


なぜこの地域に?と問われれば、「縁があったから」と
いうしかない。

縁とはいっても親戚縁者の類いではなく、身体調整での
つながりである。

独立してしばらくは、出張することが多くあった。
その時期、たまプラーザに頻繁に訪れるようになり、
どうせなら移転してしまおうということだった。

街並みは美しく、よく整理されている。
緑はそこかしこに見かけられ、街路樹も多い。
ここには女性しかいないのか?と思えるほど昼間の
駅前周辺は、華やかな雰囲気に包まれている。

まあ、僕の感性とはずいぶん離れているものの、ここ
で10年という月日を過ごした。
僕はひとつの街で10年過ごしたことなど、生まれてから
ただの一度もないので、我ながらそのことに驚いている。



この先、ここを出るのか出ないのか、それはわからない。
それはこれから成していく途上での、道筋にゆだねていく
ことだろう。

ただ、この街での10年で、僕は大いに学ぶことができた。
それは、仕事上のことも、人生についてもだ。

街、そこに住む人々、そしてそこに至ることになった
プロセスすべてに、まずは感謝したいと思う。



現在着々と進む駅前再開発。
二子玉川と並ぶ、田園都市線の目玉となるのだろう。


Hi3d0003_2






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2008年11月13日 (木)

呼吸の間隙1

「刹那(せつな)」という言葉がある。

仏教の言葉であり、指を1回弾く間に65刹那あると
する説や、75分の1秒に相当するとする説など、多く
の異説がある(岩波仏教辞典)らしい。

この「刹那」という言葉を、「均整」では技術の
うえでよく使用する。



「吸いきった刹那」「吐ききった刹那」など、呼吸の
満ち引きの頂点を利用して、身体の転換を図る。

吸いから吐きに転じる刹那
吐きから吸いに転じる刹那

そこに、スッと入っていく刺激は、意識の奥深くまで
浸透し、心の深層にまで影響していく。



………のだが。



では、75分の1秒。
果たしてそうやすやすと、とらえられるものだろうか?


初歩段階、大きく吸わせて少し止め、吐いてと合図して
そこで目的の技術を行使するよう訓練する。

仮に、これをステップ1としよう。


少し慣れると、こちらが指示せず、呼吸の隙間に合わせて
技術を行使する。

これをステップ2としよう。


このステップ2がある程度できると、「呼吸の間隙」、つまり
「刹那」をとらえている……と、多くはよく勘違いする。


このステップ2がある程度できるようになるのでも、それは
それで一定のトレーニングを、普通は必要とする。
それはそれで、大変なことではある。

でも、それと「刹那」を把握するのは、申し訳ないが次元が
異なるように、僕には思える。

75分の1秒がもし完全に把握できるのであれば、たとえば
手に持ったコップが誤ってすべり落ちたとしても、落ちた
瞬間、すでに何事もなかったかのようにそのコップを持ち
直しているくらいのことは……できなきゃおかしい。

少なくとも90%以上くらいの確率でね。

まあ、ただ…
ステップ2くらいまでいけば、テクニック的には相応の
効果を期待できるのは事実。
だから、あえてそんな難解なことにチャレンジする必要性
も、ないといえばない。


でも……

それでいいのかな。




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風景1

Hi3d0001_2
買い換えた携帯で、はじめての
撮影coldsweats01

青がキレイに出るのでオドロキ。

まあ、最初なので。。。


ちなみに、これは調整スペースからの風景。



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2008年11月12日 (水)

雑誌の特集

〈本屋へ行く〉

というのは、僕にとって大きな気分転換法である。

幼い頃より、そばに本さえあればよかった。
本の種類は問わないようだ。



ある決まった本を求めていくこともあれば、
まったくそういうこともなく、ただ何気なく
ぶらつくこともある。

本(本屋かな?)には、ある種の鎮静効果が
あるようだ。
同時に、停滞しがちな思考や発想にオイルを
さすような、そういう作用もあるようだ。


近隣に東急百貨店があり、そこに入っている
本屋をよく利用する。
規模は中規模ながら、品揃えが豊富だと感じる。


昨日も、ふと目に止まった雑誌があった。

「日本の医療はなぜ私たちをラクに治して
 くれないのか」

という、「ん?いいのかコレ?」という感じの、
ちょっと刺激的なニュアンスの特集の表紙。

「SIGHT」という季刊雑誌で、これまでも何度か
目にしたことはあった。
これまでは素通りだったが、今回はほぼ直観的に
購入してしまった。



そうそう。
こういう視点から、まずはとらえないとね。



特集全体が現役の医療者や研究者などへのインタビュー
から構成され、ひとつの方向からだけではない、生の
現場の声も反映されていてとても興味深かった。

冒頭に


「なぜ、日本の医療は患者をラクに治してくれないのか、
 といえば、答えは病気はラクに治らないから、という
 事になる。何の救いもない結論だが、それが一番正しい
 答えなのだ。」


とある。

これだけだとホントに救いもないが、なぜこのような結論が
出てきたか、という見方をしながら読むと「なるほど…」と
うなづけた。


「自分は健康でなければいけないという妄想にとりつかれ、
 死を見ようとしていなかったのだ。全ての人は病み、そ
 して死ぬ。そこが医療を考えるスタートなのである」


なかなか、読ませる雑誌だった。






















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2008年11月11日 (火)

からだのはなし1 〜柔軟性〜

よく、腰や肩のこりを訴えられる方に

「私は身体が硬いから…」

といわれることが多くある。

この場合の「硬い」とは、たとえば立った状態から床に手が
着く着かない、座って開脚してよく開く開かない、といった
ことをどうやら言われているようだ。

また、それと同じくらい

「私は筋力がないから…」

といわれることが多くある。




確かにテレビ、雑誌、新聞などでストレッチが推奨され、
予防策として筋力アップが掲載されることが、よくある。



ただ、よくよく考えてみると、別に何にもしてない、筋力も
なく身体の柔軟性もあまり高くない方でも、腰の痛みなどと
無縁な方って………たくさんいるのではないだろうか?

わりと懸命にあくせく頑張ってる人ほど、かえってそういう
不調を抱えている場合の方が、経験上多いように思う。




最近では、ようやくストレッチの弊害が叫ばれるように
なってきた。

僕自身、中学くらいから相当ストレッチやりこんでいて
いまでもわりと柔軟度は高いのだが、その弊害も自身の
身をもって体感している。

いや、もちろん、適材適所で用いれば問題はない。
ただ、それをすべてにあてはまようとするのは、土台無理
なんだということだ。




からだは、どこまでいっても固有のもの。
やはり、そう思わずにはいられない。

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【TAMURATIC】について2

まず、昨日の記事(「名称」というタイトル)は、一部訂正しました。
よろしければご確認ください。

ホント、入り組んでるなぁ。
「均整」は…。





【TAMURATIC】。
「仮称」ではあるが、ある種の自己表明でもある。

だから、当面は、これでいく。


人は、基本的に「正体」のわからないものを、恐がる。

もっとわかりやすくいえば、「自分の理解の範疇にないもの」
を見ることを、といってもいいかもしれない。

好奇心、探究心の旺盛な人間にとっては

「未知なるもの」

は、ほかに換えがたい大切なオカズなのだが、そうでない
方々にとって、「未知」は畏怖の対象なのだ。

「恐怖」については、いろいろな角度から今後書いて
いくつもりではある。
たとえば、「病気」への恐怖などもあるが、此れは現代では
ただ単に「未知」だから、ではない。

かなり、構造的。
まあこのあたりはいづれ。




で、【TAMURATIC】。

僕は開業当初から、ほとんどすべての来訪者の方に
いわゆる口コミで出会わせていただいてきた。

そのなかで、だいたい8割くらいの方に

「均整って、何ですか?」

と聞かれてきた。


口コミだからそういうことはないだろう…と普通は
考えるかもしれないが、そうではない。



これは最近でもいえるのだが

「自分が何されて調子よくなったか、わからない」
「どういうことをするのか、(理解できないから)言えない」

という意見を、当時から言われてきた。

開業当初は、それでもプリント作ったり、事細かに説明したり
とやってはいたのだが、一番便利でわかりやすいのが

「ゆがみを直す」

という言葉だった。

まあ「均整」はゆがみを直すのだから、それでいい。

でも、

「何されてゆがみが直ったか、言えない」

という段階が、当然やってくる。

僕のキャラクターの、怪しさゆえなのだろうけれど。。



たとえば

「健康」という概念がある。
でも、では「健康」とは、はたして何だろうか?

こういう概念が必要なのだろうかと、いろいろ調べたこともある。

でもねぇ…。
答えなんて、

求めるもんじゃない

んだと、気づいた。

もうすでに、そこにあるんだし。


で、【TAMURATIC】では、

健康を求めない

というのが、コンセプト。



過不足なき気の流れ

健康ではなく、この実現が、目的。


そういうのって、「未知」、なのかな。




























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2008年11月10日 (月)

名称

「均整」

こうヤフーやグーグルなどで検索すると、いろいろな
団体や学校があることに気づくかもしれない。


「身体均整法」
「姿勢保健均整術」
「均整術」

など、その団体、その組織の考え方や意向により
さまざまに呼び名があるのが「均整」の特徴。


これは、創始者が昭和50年に他界されたあと、
種々さまざまな大人の事情(?)により、分裂した
ことが発端となっているのだろう。

創始者の技法を継承し、伝えていこうとする意思。
当時、いや正確には戦後医療改革あたりからの流れを
重視し、それに沿っていこうとする意思。
新たな発展を望む意思。

そうしたさまざまな意思の相違が、現在の混沌を
生んでいるといえなくもない。


もちろん、いい悪い、正しい正しくないなんて、
いえないけれど……ね。




僕が「均整」を教えていただいたのは、

「東京均整学院 均整指導教室」

というところ。


たぶん、ネットで検索しても出てこないけれど。


昔は「均整」も専門学校だった。
東京の目黒区、大橋に所在していた。
まあ、そこも後に分裂縮小するワケだが。

そこで、最晩年に理事長と事務局長をされていた
2人の先生から、少人数制で習うことができたのは、
幸運だったといえるのかもしれない。

ただいえるのは、どこで誰に習ったかは、実際の
場面ではどうでもいい。
要はその瞬間、何ができるかだろう。



名称なんて、そういう意味ではどうでもいい。


…と思うけどね。














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本屋

昨日、久しぶりに新宿の某老舗巨大書店に行った。

僕がそういう書店に行ってもっとも時間を
使うのは医学書や科学系のコーナーだが、
やはり、置いてある本の質と量がちがう。

ネット書店もよく使うが、やはり僕的には
リアルな本屋が好きだ。







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2008年11月 8日 (土)

携帯

つい最近、携帯電話を買い替えた。

確か4年ぶりに変えてみたのだが、これが
ビックリするくらい、高機能…のようだ。
(実はまだよくわかってない)

でも、よくよく見るとけっこう有料メニュー
も多いし、端末自体が安くなっても…ねぇ。

ただ、カメラ機能がすごく向上しているよう
だし、これで本サイトの写真もいろいろ変えて
いける。




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【TAMURATIC】について

「【TAMURATIC】身体操術 横浜館」

この名称、実は「仮称」である。



人のイメージとは面白いもの。
たとえば

「野球」

といえば、だいたいの方にとって、広い芝生やグローブ、
バットなどがイメージされるだろう。

でも、少し詳しい人になれば、ある特定の球団のユニフォーム
や、特定の選手、最近の迫真の場面など、より具体的な形で
イメージされることになる。

ややマニア的な人になれば、「野球といえば、19○○年の
日本シリーズの○○のピッチング‥‥」など、その時のシーン
がこちらにも鮮明に見えるほど、細かく確固とした映像として
その人の記憶に刻まれているような場合もあるだろう。

このように、「興味」や「関心」、また各個人特有の感性に
そった形で、イメージは形成される。

つまり、その対象がどうでもよければ、そのイメージも
曖昧模糊とする。
とっても気になれば、微に入り細にいたるまで、鮮明な
イメージとなって形成される。




【TAMURATIC】というのは、もちろん僕の造語。
僕なりに訳せば「田村的」「田村流」というような
感じになるだろうか。

ただ、僕としては一流一派を名乗っているつもりは
毛頭ない。
というよりは、一流一派云々ということに、はっきり
いって興味も関心も、僕にはない。

さまざまな技法を僕の感性でミキシングして、より
オリジナリティある手法へと変換している。
それをたとえば「均整です」「○○ヒーリングです」
というのは、やはりどこか違和感を感じる。

だから「【TAMURATIC】」。
いろいろな技法を、ユーザーの方々にとってもっとも
有益な形で提供する。
いろいろな原理を抽出し、培養することで新たな見地、
新たな作用を生む、独特のワザになる。

たとえば、「均整」の創始者はそうしてきたはずだ。
だから、ユニークで、さまざまに応用可能な、希有な
技術体系になったのではないだろうか?




まあ、僕は僕なりのスタイルでやりたいだけ…
なんだけどね。




いくら「均整」「整体」といっても、一般的な
ユーザーの方にとって心に残るのは、出会った
施術者の印象がほとんど。

「均整=その人」になるわけだ。

だったら、ある意味での自己表明を、自覚的に
やっても、いいんじゃないだろうか?
というか、やった方がいいと思うけど。

「その人」が、印象的であればあるほど、人は
興味も関心ももつんだし。

【TAMURATIC】

とりあえずの仮称だけど、そういう意味も、ある。












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2008年11月 7日 (金)

三原則まとめ

「三原則」

平衡性…釣り合い
可動性…過不足なき動き
強弱性…一定ラインからの「力」の上下

おおまかながら、まとめるとこうなる。

また、この概念は意訳すると

平衡性…身体と精神の平衡
可動性…過不足なき行動のあり方
強弱性…壮健なる身体と精神

を目指す、といってもいいかもしれない。


昭和20年代当時、「身体のゆがみ整えることで、
身心の問題から解放する」というコンセプトは、
相当に新鮮だった。

それのみならず、応用技法として頭脳開発や
美容方面への具体的な技術的アプローチまで
対応領域としてカバーしていた。



それらすべての基準的概念として「三原則」が
ある。



「均整」は、枠組みが広い。

広いがゆえに、僕などは時折

「結局、均整って何なんですか?」

と聞かれることがいまでもよくある。


通常のフレームに収まりきれないほどの
ボリュームと質の高さが内包されている、
といえなくもないだろう。



「原理原則を理解し沿っていれば、均整は
 何をやってもいい」

というのは、僕が初学時に習った先生の言葉だが、
さもありなん。

創始者も、「手技は単なる一手段に過ぎない」と
いう言葉を遺している。



であるなら、一般的フレームに無理やりはめ込んだ、
代替セラピーの一流派と限定せずともいいのでは
ないだろうか?

既存の枠組み、その外側を構築することは、果たして
難しいことなのだろうか?


……などと、世の中を見渡しつつ、「均整」の現状を
ななめから見てみると、ついつい考えてしまう。


せっかく、「三原則」、あるんだし。














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2008年11月 6日 (木)

三原則3

“三原則”最後のひとつは「強弱性」。

この概念が、たぶん一番……あいまい。
でもある意味、これがあるから「均整」の
「均整」たる由縁があるようにも思う。

たとえば、肝臓。

僕が

「肝臓が疲れてるよ」

というと、ほとんどの方が

「最近お酒飲んでないのに…」
「私、お酒飲まないです!!」

と、「お酒」にからめた表現をする。

一般的には「肝臓→お酒」という思考の流れ
が通底しているようだ。

でも実は、肝臓はただお酒の解毒だけしている
のではない。
具体的な機能や働きはいづれまとめて書くが、
少なくとも「肝臓=お酒」ではないことをここでは
明記しておく。



で、「強弱性」。

「お酒」を飲むと、確かに肝臓は興奮する。
それはそう。
アルコールは、人体にとってはどちらかといえば
有害だから。

解毒するために、肝臓は懸命に働く。


人間、目先の仕事でいっぱいいっぱいになると、
よそに目がいかなくなるが、肝臓も同じ。

多忙すぎると、休む暇もなくなる。
そうすると、当然疲れる。

肝臓は、疲れると硬くなる。



この疲れた状態をさして「強弱性に欠けている」
と「均整」では表現する。


弱々しくうなだれた状態。
これを表現すれば「全体的な強弱性の欠如」。
(あえていえば、ですね)

胃が弱い。
これも「強弱性が欠如している」。

頭を使い過ぎてオーバーヒートしている感じ。
これも「強弱性が欠けている」。


要するに、その本人にとって、ある一定ライン
から「力」が上がり過ぎたり、下ったりした
場合、それすべて「強弱性が欠けている」と
「均整」的には表現します。


まあ……
あいまいといえば、あいまい。

でも……僕にとっては、わかりやすい。

なぜなら、生命現象とは、本来いつも不安定だから。



キチッとした規定がないがゆえに、現代ではなかなか
理解しがたい概念、三原則。

でも、「均整」は生命現象の可能性を開発していく、
エネルギーを引き出し、生命力を高めていく。

そういう視点からすれば、この規定のなさは逆に
気持ちがいい……かもしれない。









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2008年11月 5日 (水)

三原則2

生命現象のもっとも端的な表現といえば、
それはやはり

動くこと

だろう。

立つ、走るなどの身体運動はもちろん、
無意識に行われる内臓の運動、暑い寒い
を感じて縮んだり拡がったりする皮膚、
繰り返すまばたき…。

さらにいえば、一瞬も休むことなく細胞は
変化し続けている。

「均整」の三原則のうちのひとつ、

可動性

とは、本来の用い方は運動系、つまり
筋肉や骨格系の動きのよしあしのこと
をいっている。

その動きの制限が起きているのが、身体の
不調のそもそもの原因、だということだ。




確かに、たとえば筋肉の硬直が甚だしい箇所は
血流も悪く、神経系の働きも鈍くなる。

たとえば肘の痛みなど、内側に回すか外側に
回すかのどちらかがやりにくいという場合が多い。

その回しにくい(運動制限)のを回しやすくすること
で、その箇所に血流が回復し、軽くなる。

ほかの箇所でも、このような運動制限の解除で
働きが回復する場合が多い。



内臓器官も、いうなれば連動するネットワーク。
どこかの働きが落ちる=動きが鈍くなるということ
だから、まずは動きが回復すればよいことになる。



「均整では可動性を中核におく」とは創始者の言葉
であるが、恐縮ながら卓見だなと、思っている。






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2008年11月 4日 (火)

三原則

ある方法論を独特のものとするには、何かしらの
理論的な独自性が必要とされる。

それは学問的なものであっても、ラーメンのような
ものであっても。


「均整」の場合、それは三原則にあたるだろう。


三原則は

平衡性
可動性
強弱性


という3つの概念から成り、この3つが円融した状態
である時、その人は「均整」であるという。

たとえば、“いい姿勢”といえば、普通は

“まっすぐ”

な姿勢を思い浮かべるだろう。

左右均等で、前からも後ろからもまっすぐであること。
“いい姿勢”のベーシックな理想は、おおむねこんな
感じではないだろうか?

「均整」に従事する人でも、案外このように考えて
いる人はいるのではないかと思う。



しかし、理想と現実はちがう。

現実には、そのような姿勢に強制的に矯正したとすれば、
いろいろな不都合が起きる人も多くいる。

“まっすぐ=いい姿勢”とは、必ずしもいかない。

では、どういう姿勢が“いい姿勢”なのか?

それを「均整」では、

釣り合い

という言い方をする。

三原則でいえば「平衡性」にあたるが、あくまでも
全体として身体をとらえ、上下前後左右、外面内面
などに過不足のない状態をさしている。

これは言い方を変えれば、

「曲がっているから悪い」という捉え方は
しないということでもある。


このような捉え方を曖昧とする向きもあるだろうが、
生体を機械として見るのか、「生きたカラダ」と
して観るのか、もし「生きたカラダ」として観て
いるのであれば……なかなか絶妙だと思うのだが。



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2008年11月 3日 (月)

創始者

どのようなシステム、どのような業態であっても、
「事」が起きる最初は、莫大なエネルギーがいる。

その莫大なエネルギーをもって、敢然と我が道を
突き進む、その姿に人は畏敬の念をもつのだろう。

身体均整法創始者・亀井進(故人)もまた、廃れ
無きものとされかかっていた療術の復興を念じ、
この手技的体育療法を興した。


いまでこそこのテの技術自体は、望みさえすれば
習うことは難しくない。
それはもちろん、奥行きの深さと幅の広さを除けば
ということにはなるが。

しかし、昭和20年代当時はそうではない。
それこそ知る人ぞ知る。
相当に縁がなければ、まずつながらないような細い糸
をたどってのみ、このテの技術に出会うことが普通
という時代だっただろう。

それは、このテの技術の特殊性と、当時の通信技術、
情報ネットワークのあり方を考えれば、明らかだ。




そういうなか、強烈なカリスマ性と整合性に富んだ、
当時としては画期的ともいえる理論体系をもって
療術界に風を起こしていたのが、亀井師範だった。
(均整では、いまでも「師範」と呼称しています)


亀井師範は、愛媛県松山市の人。
当時療術界には、もう一人、強烈なカリスマ性と圧倒的な
実力を併せもつ、整体創始者・野口晴哉先生がいた。

歴史的経緯は複雑だが、この両雄は互いに交流もあった。
互いの進む方向性のちがいから離れたということだが、
もし共同路線であったなら、療術はおろか日本の癒し
の歴史そのものがいまとはまったく違ったであろう。

「姿勢の医学」を標榜し、模索し続けた亀井師範。
「気の癒し」を実践し続けた、野口先生。

その強烈なカリスマは、いまでもそれを知る人々の
心の奥にあり続けている。








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2008年11月 1日 (土)

均整流々

「均整」

この言葉を聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか?

1996年から今日まで、

「均整」

というメソッドを目当てに来訪された方は数えるほどしか
いない。


まあしかし、
いろいろな意味でそれはもったいないことではある。


「均整」を基礎に、これまでいろいろな手法に出会った。
しかし、「均整」は、それでも優れた手法であることに変わりはない。





「均整流々」とは、流れ流れていく生命の営みと、流れ流れて
いきそうな「均整」というメソッドを、かけてみたものだ。

このまま流れ流されていくのか?
自らの意志で、流れる方向を切り開くのか?

どちらのプログラムを起動するのか?



その判断の時期は…もう来ているのかもしれない。

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